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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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エリック 6.

 バニーに誘われるまま、近くのカフェに出向いた。


 こんな状態のコウを置いて出かけるなんて、自分でもどうかしてると思うよ。でも、彼はずっとうつらうつら眠っているし、そんな彼の傍で何もできないままじっとしているなんて、それこそ居た堪れなかったのだ。

 コウが目覚めたらすぐに気づくように、メモを残しておいた。ベッドの中からでも手が届くように、椅子の上に食事のトレイをのせておいた。それから――、熱はまだある、といってもそれほど高熱なわけじゃない。呼吸も落ちついている、と起こさないようにそっと触れて容体を確かめ、彼の乾いた唇を軽く舐めて湿らせておく。


「きみのためにできることを見つけてくるからね」

 

 コウは薄く目を開けて頷いた。

 たんに、そんな気がしただけかもしれない。そしてもう一度彼を抱きしめてから、僕はこの部屋を離れたのだ。






 ともかく、さっとシャワーだけは浴びてから家をでた。


 待ち合わせは、歩いてすぐの場所にあるカフェだ。決して広いとはいえない、白い壁に挟まれた二階バルコニーにいる僕を見つけたとき、バニーはあからさまにほっとした、そんな笑顔を向けてくれた。

 バニーの家から車で45分はかかるのに、僕はほとんど待たされなかった。彼は僕との電話中にかなり早い段階で家を出て、車でここに向かっていたのだという。僕のことを心配して――。

 そんなことは当然だとばかりに、彼は少しはにかんだ笑みを一瞬浮かべた。そして席に着くよりなにより先に、僕の首元に手を伸ばして確かめていた。片手で器用にシャツのボタンを一つ外して襟ぐりをずらし、ぐるりとうなじまで。


 痕が残るほど、強く絞められたのかどうか。


 ふー、と彼は眉をよせて息をついた。ドサリと向かいのソファーに腰を下ろし、予想以上に厳しい顔で僕をみつめる。



「来るんじゃなかった。わざわざ怒られになんて」

 このまま逃げだしたい衝動を感じながら、バニーをチラリと盗み見る。

「いつものきみなら、きっとそうしたろうね。だから驚いているのは僕の方だよ。きみはこんなことがあったところで、誰かに尻拭いは任せて、あとはすっぱり忘れていたじゃないか」

「彼に関してはそうはいかないだろ。まったく知らない奴ってわけでもないし、なにより」


 コウに絡んでいるのだから。


 そう告げようとしたのだ。ところがその言葉は、僕の喉元にひっかかったまま。


 ――おそらく彼が、なんともいえない淋しげな苦笑を浮かべていたから。


 気まずい気分で彼を見あげた。ウェイトレスが注文を取りにきて、彼の視線が僕から逸れていたことに、ほっとする。


「アル、まさかコーヒーだけで済ます気じゃないだろう? 何にする?」

「適当に」


 食欲なんてまるで湧かない。胃がむかむかしているのだ。けれど、そんなことまでわざわざバニーに説明する必要はない。

 彼はそれ以上煩く言うことなく適当に注文をして、また僕に向き直った。




「アル、それで、きみの子猫ちゃん(キティ)の具合は? 真剣に、一度うちに連れてくるかい?」

「コウが嫌がる」


 そのことに関して、コウとは前にも一度話しているのだ。またアレを繰り返すなんて。とんでもなく気が重い。彼が話題を変えてくれたことには安堵したけれど、それで気が楽になるわけではなさそうだ。

 僕はちゃんと解っている。反省もしている。バニーだって、解ってくれているから話題を変えた。だけど、なんだろう――、この落ち着かなさは。


「彼、持病は?」

「留学前検診ではなにも問題なかったって聞いてる。ただ、遺伝的に自律神経に変調をきたしやすい体質だって」

「きみはそれで納得しているわけではないんだろ?」


 もちろん。だから僕はここにいる。


「どう思う?」


 昨夜からのコウの状態は電話で先に話している。僕は彼の判断が知りたくてここまで来ているのだ。そして、なんとかコウの機嫌を損ねずに病院に連れていくための助言がほしいと思っている。それが無理なら、彼が普段の体調に戻るために僕のできることを教えてほしい。


「うーん、これだけではねぇ、なんとも」


 バニーは宙を睨むように目を細めている。深く思索しているときの彼の癖だ。彼の内側でコウの像が組み立てられていく。そうしてバニーは僕に可能な範囲以上にコウの深部まで潜っていき、彼の隠された秘密に触れることができるようになる。


 僕はそれも嫌なのだ。


 だから、彼にコウを逢わせたくない。たとえそれがコウのためになると解っていても、彼の方が僕よりもより深くコウを理解するなんて、許せるはずがないじゃないか。


 こんな偏狭な僕の想いが、今の状況を作ったのかもしれないのに。


 僕はコウを失うことに繋がるかもしれない、どんな危険も冒したくない。僕はただ安心したいだけ。そのためにここにいる。

 コウは病気なんかじゃない。ただ精神的なショックを受けているだけで、しばらくすれば落ち着くだろう。そうバニーに保証してほしいだけなのだ。



「でも、彼のことは、そう差し迫って命の危険に直結するような問題ではないだろう、と思うよ」


 そう、僕のそんな逃避的な思考の癖を、バニーは誰よりも知ってくれているから。



「それよりも目下の問題はラザーフェルドの方だろ?」


 エリック。


「きみの子猫のことで、どうしてもきみが早急に動けないのなら、僕の方で彼の措置入院手続きを取るように担当医に進言しようか?」

「措置入院――」

「彼こそ早急な対処が必要じゃないかな」


 そこまでは考えていなかった。

 僕がすぐに賛同を示さなかったからか、呆れたようにバニーは眉をあげる。


「きみは、」と言いかけて、料理を運んできたウェイトレスに憚ってか、バニーはいったん口を噤んだ。


 彼が僕のために頼んでくれたのは、黒パンの添えられたトルコ風ポーチドエッグだ。ヨーグルトとバターのソースにチリペッパーが振られている。胃に負担をかけないようにとの、彼らしい選択だ。

 バニーは、まずはサラダかららしい。だがその横には、鉄製のグラタン皿の中で赤く煮えたぎるトマトソースに落とされたベークドエッグも置かれていて、くつくつ音を立てている。


「珍しいね、そんな大盛りのサラダを頼んでいるのは初めて見る」

「ここは契約農場から直接仕入れている野菜や卵が、看板メニューだからね」

「よく知ってるね」

「きみが関心を向けないだけだよ」


 なんとなく途切れた会話を繋ぐこともせず、まずは食事に専念した。一口食べると、お腹が空いていたのだと判る。


 すぐに食事を終えて、バニーはカフェラテを2つ頼んだ。



「それできみは、まるで自覚がないってことでいいんだね?」


 テーブルに両肘をついて身をのりだした彼は、声を潜め、真剣な瞳で僕を凝視して尋ねていた。


 


措置入院 ……患者本人に対して行政が命令して入院させる。これは精神疾患のために、自傷他害の恐れ、何らかの迷惑・犯罪行為をする可能性が高い場合に、行政が患者に命令して、行政措置として入院を強制する。

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