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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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エリック 5.

 部屋に戻ると、コウはまた眠りに落ちていた。そんなに長い時間外していたわけでもないのに。起こそうか、どうしようかと迷い、結局、僕はトレイを机に置いた。

 水、それにエルダーフラワー水のボトルとグラスだけを、コウが気がついたらすぐにあげられるように、とベッドサイドのチェストに置く。


 それからしばらくベッドの端に腰をおろし、可愛らしいコウの寝顔を見つめていた。



 どうも今の僕は、瞬間、瞬間、考えることが変わるようだ。

 コウが知ったら、まるでロンドンの空のようだね、と瞳をキラキラさせてこんな僕を揶揄うことだろう。


 彼を着替えさせていた間は、身体に残る赤い痕のことを一番に尋ねるつもりだったのだ。それなのに、彼の瞼が開いて潤んだ瞳に見つめられると、とたんにその傷に触れることが怖くなった。

 そして今は、ちゃんと食事をさせなければという思い以上に、彼の安らいだ眠りを邪魔することが罪に思えて、静かに息を殺してしまう。

 これほど自分が優柔不断な人間だと思ったことはない。自分でも呆れ返るほどだ。


 それに、こうして穏やかな彼の寝顔を見つめていると、どうも、コウの状態は本当に精神的なショックからくるものなのかどうか、今のうちにバニーに相談しておいた方がいいような気がして落ち着かない。それに昨夜のエリック。彼のこれまでとは明らかに違う振舞いのことも、彼に聴いてほしかった。


 僕は、そう、――バニーに助けてほしいのだ。この息苦しい状況から救いだしてほしいのだ。あんなふうに踏み躙ってしまった彼なのに――。


 僕のためでなくとも、彼ならエリックをどうにかしてくれるだろう。なによりも今は彼のクライエントなのだから、彼が対処するべきだと、腹立たしささえ湧きあがる。それに彼に報告することは、前任者の僕の義務ではないか、と。


 つらつらと都合のいい言い訳ばかりが溢れでる。


 その根底にあるのは、エリックさえコウに関わらずにいてくれれば、すべては元通りになるだろうという、せいぜいそんな思惑だ。エリックのことなど、本当は、僕にはどうだっていいのだから。

 

 

 ――それで済むはずがないじゃないか。


 僕とエリックの問題だ。そして、僕とコウの。当然、バニーに頼れるようなことじゃない。僕が自分で解決しなければならないことなのに。


 

 穏やかな寝息をたてているコウの頬を、そっと片手で包んだ。そのまま汗で額に張りついている髪をかきあげる。やるせない。


 僕がきみに望むことなんて、大したことじゃない。こうして僕のベッドで、僕を待っていてほしい、そんなことくらいだ。


 それは大それた望みなのだろうか? 

 きみの望みは、僕とは違うのだろうか。

 


 きみを守りたい。せめてきみが、僕のことで、誰にも脅かされることのないように。僕のことで憂いて、涙を流すことなどないように。なによりも、エリックの攻撃性がきみに向かうことのないように。


 僕にできることは――。


 彼のこめかみにそっとキスを落とした。

 サイドチェストに置いたままだったスマートフォンを手にして、僕は足音を忍ばせて部屋を出た。





 人というものは、両価的(アンビバレント)で、かつ逆説的(パラドキシカル)であることが矛盾しない生き物だ。そう考えると楽になる。言い訳というやつは、実に狡猾なものだもの。



 頭の隅でそんなことを思いながら、僕は書斎に移り、スティーブの椅子に腰を据えて、電話の向こうのバニーに洗いざらい話している。


 口からするすると言葉は滑り落ちていく。バニーの息遣いを感じる。時おり挟まれる彼の適切な質問が、吸い取り紙のように僕の不安を吸い取ってくれているのを実感する。


 だから僕は、安心して意識を浮遊させていたのだ。


 なんの感情も入らないまま昨夜のエリックのことを伝えながら、意識は、スティーブの足下でこの椅子にもたれて本を読んでいた、幼い僕自身の姿を追いかけていた。


 スティーブの大きな手が、時おり僕の頭を撫でてくれる。彼を見あげて僕は微笑む。柔らかなテノールが僕を呼ぶ。



『アル、』


 バニーの声に、はっと意識が飛び跳ねた。無意識に辺りを見回していた。まるで、霧散してしまった記憶を惜しむかのように――。



 スティーブの大切なアンティーク家具を夏の陽射しから守るため、いつも閉められている分厚いカーテン。薄暗くしめやかな空気のなか、静かに呼吸している重厚な家具。この部屋はひんやりと優しい静寂に包まれている。 


 書斎の黄色の肘掛け椅子に座るスティーブが、僕はとりわけ好きだった。この部屋の湿気た空気と古書の(かび)たような匂いが、彼の温かさを際立たせてくれたから。

 幼い頃癇癪(かんしゃく)持ちだったマリーはここへ入ることを許されず、彼と特別な時間を持つ特権を与えられていたのは、僕だけだった。



『アル、きみのことが心配だ。きみは大丈夫なのかい? 僕の前でそんな我慢はいらない。自分を過信するんじゃないよ、アル』


「大丈夫。ありがとう、」

 

 スティーブ――。

 傍にいて。僕だけの傍にいて。


「バニー」


  

『彼はクライエントとして、きみの手にあまる。きみの子猫のことが心配になるのももっともだな。しばらくロンドンを離れて、彼とは物理的な距離をとることだね。その方が僕としてもやり易い。――ところでアル、食事は済ませたかい?』


 一通り話を聴き終えると、彼はまず僕を気遣ってくれ、ついでいくつかの質問をした。あたりさわりのない、僕の心を落ち着け、緊張をほぐすための質問だ。


 バニーに訊かれてようやく気づいた。僕はまだシャワーも浴びていない。水の一滴さえ口にしていない。ずっと気が張り詰めていたのだ。気づくと同時に背筋から力が抜け、どうしようもなく虚脱感に襲われていた。



 今になって実感したのだ。

 僕は、昨夜のことがとても恐ろしかったのだ。起き上がれないコウの姿。はっきりと僕に向けられたエリックの暴力性。成す術をもたない、自分自身。


 こんな無力な自分で、どうやってコウを守るというのだ? 


 何よりも、あの傍若無人な赤毛から――。




 

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