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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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エリック 4.

 ベッドの横に椅子を置き、そこに腰かけてぼんやりと考えていた。


 どうして、こんなおかしなことになってしまっているのだろう、と。


 僕はコウを愛している。コウも僕を愛してくれている。

 それなのに、僕の愛は彼を混乱させ、彼の理性を脅かし、危険に対処できないほどに、彼の注意力を削いでしまっているのではないか。あるいは自分で制御できないほどに、彼の感情を掻き乱してしまっているのではないか。


 それに、コウは僕といて、はたして僕が感じているような豊かな満ち足りた想いを感じてくれているのだろうか。などと、そんな疑問が水面に零した油のように、見ようによって様々に色を変えて、ギラギラしく広がって僕の思考に膜を張るのだ。


 これまで僕は疑ったことすらなかったのだから。

 彼の中に、未だに消化できないセックスへの怖れや恥ずかしさ、戸惑いがあるのは僕だって理解している。けれどそんな抵抗を凌駕するほど、コウは僕で、僕はコウで、僕たちは重なり溶け合えるのだ、と。僕の感じるように、コウもまた感じてくれているのだ、と信じていた。

 彼の不安を取り払えるように、優しくしてきたつもりだけど。それすら僕の独りよがりな幻想で、僕は彼の抱える不安を、些末なものとして無視してきたのかもしれない。


 僕にとってコウがどれほど特別か、コウには伝わっていなかったのではないだろうか。だから彼は、僕に何も言えなかったのではないか。彼個人の性格の問題だけではなく。


 僕に言っても無駄だから。聞き流して彼を尊重しないから。


 僕だけがコウに夢中で、自己満足のためだけに彼を消費して、肝心のコウの声は僕には届いていなかったのかもしれない。


 これを愛といえるのか?


 コウに申し訳なくて、胃がズンッと沈み込むように重く感じられて堪らない。



「アル」

 コウが薄らと瞼を持ち上げ、僕を呼んだ。

「なに?」

 僕に向かって開かれた彼の手のひらを握りしめる。


「ただいま、かな? ここは僕たちの部屋だよね?」

 とろんとした眼差しで僕を見つめ、何度も目を瞬かせている。


 僕たちの――。そんな一言が嬉しかった。


「そう、僕ときみの部屋だよ」

 彼の額にかかる髪をかき上げて、キスを落とした。まだ熱が高い。額は汗でしっとりとしているのに、唇は白く、カサカサに乾いている。痛々しい。


「喉が渇いたんじゃないの? 何か飲み物を取ってくるよ」

「ありがとう、アル」


 その乾いた唇がにっこりと微笑む。アーモンド型の目を嬉しそうに細めて。


「でも、もう少しここにいて。きみを見ていたいんだ」


 握ったままだった手が、僕の手を引き寄せる。頬を摺り寄せ、手のひらにキスをくれる。


「アルの手は、誰よりも優しいね。だから僕には解るよ。誰もが、きみに愛されたがる気持ち。それでも、僕は――」


 コウは言葉を続けることができなかった。くしゃりと眉をよせて固く瞼を閉じ、唇を引き結んだ。


「――アル、お水をもらえる?」


 ふっと息を吐き、ふたたび開かれた彼の目は、やるせなさを湛えていて。


 僕は黙って頷いて、立ちあがった。





 もうお昼なのか。

 キッチンから漂うこうばしい香りで、そういえば、とようやく時計に目をやった。

 コンロの上には、まだ充分温かいスープ鍋。それから、ああ、やはりオーブンにも何か入っている。それに冷蔵庫にはサラダか。


 サラダではなく、ミネラルウォーターのボトルを取りだした。だが、グラスを手にキッチンを出ようとしたところで、思い直す。


 コウはお腹が空いているかもしれない。昨夜はわずかなサンドイッチを齧っただけだった。


 カップにスープを注ぎ、オーブンから取りだしたコテージパイを切り分けた。それから冷蔵庫。さっきちらりと視界の端に映った、エルダーフラワー水のボトルを拝借する。きっとマリーのだろう。勝手に飲むとあとでぐずぐず文句を言われるけれど、コウの状態を話せばきっと何も言わない。


 そういえば、マリーとショーンはいないのだろうか、とようやく静まり返ったこの家の違和感に思い至る。僕たちが戻っていることに気づかずに、はやばやと出かけたのだろうか? あとで連絡しておかなければ。彼らだって僕たちのことを気にかけてくれていたのだから。



 人の気配のしない家は苦手だ。居た堪れない。僕だけが取り残されているような気になる。


 なぜそんな気分になるのか判らなかった。いつ頃からそうなのかも。この家にはずっとアンナが、それにマリーがいてくれた。スティーブは出張が多かったけれど家庭を大事にする人で、僕は寂しい想いなんてしたことがない。


 スティーブとアンナ夫妻は僕の理想だ。彼女以上の女性なんて認められない。だから僕は女性を恋愛対象にできないのではないか、と思うほどに。



 彼らのように、互いを尊重できるカップルになりたいのに。


 大切な人を大切にする。

 たったそれだけのことが、きっと、僕にはできていない。



 料理ののったトレイを持って、わざと音を立ててドアを閉めた。かつてそうやって、僕はここにいると主張していたように。


 そうすれば、アンナが顔を出して、僕を抱きしめてくれたから。そして、今はコウが。


 ああ、違う。

 僕はきみに抱きしめてほしいんじゃない。

 コウ、僕がきみを抱きしめてあげたいのだ。



 


 

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