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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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エリック 3.

 キラキラと光の揺れる水面を眺めながら、身体はずぶずぶと沈んでいく。息ができなくて苦しいのに、広げた手足に水の抵抗はなくて。僕はただやみくもに(くう)をかいている。よるべなく――。

 ここは水底なのか、空の底なのか、それすら判らないまま、胸を塞がれる、あまりの苦しさに目が覚めた。


 見慣れた天井には白々とした昼の星。透き通る青の遮光フィルムに()された淡い光に浮かびあがるのは、――僕の部屋だ。


 コウは?


 ガバリと跳ね起きて辺りを見回した。ベッドの反対側の端で、背を丸めて眠っているコウを見つけて安堵する。



 昨夜、タクシーを呼んで、深く眠りこんだまま起きなかったコウを抱えて家に戻ったのだった。僕もすぐに寝こけてしまったらしい。疲れ果てていたせいか、あまり記憶は定かじゃないのだが。


 だけど、コウがちゃんと僕の部屋にいる。それだけで心がひたひたと満たされていた。


 ベッドから落ちそうになっている彼の身体を抱えて中央まで戻し、枕を整えて頬にキスを落とす。そっと彼の額にかかる髪を指で梳く。頭皮が少し汗ばんでいる。熱があるのかもしれない。彼の平熱は僕よりもずっと低いもの。

 

 コウはまるで死んだように眠っている。エリックの毒に当たって目覚めないなんて――、これでは彼の方が白雪姫じゃないか。

 でも、僕のキスで起こすより、このまま休ませてあげる方がいいのかもしれない。


 見つめているだけでもっと触れたくなるもどかしさと、こうして僕のもとに戻ってくれたのだから、今はそれだけでいいじゃないかと、衝動を押しとどめようとする理性がせめぎあう。葛藤がトクントクンと血液にのって身体中を巡っているのを意識する。だからコウが好きなのだ。そばにいてくれるだけで、僕の生命力(リビドー)を沸き立たせてくれる。


 

 けれどしばらくするとそんな浮かれた想いも落ちついて、僕は、コウが眠っていてさえどこか憂いを帯びた、悩ましげな面持ちをしていることにやっと気づいた。

 熱が上がってきているのだろうか。コウはひどく汗をかいているようだった。汗を拭いて、着替えさせた方がよさそうだ。




 タオルと彼のパジャマを、洗面所まで取りにいった。当然のように綺麗に片づいている。こんな状態になるまで、コウは几帳面に自分の着替えや皆で使うタオル類の洗濯をし、きちんと畳んで片づけてくれていたなんて。

 感心するというより、唖然とする。僕がマリーと二人で暮らしていたころの話なんて、とてもじゃないがコウにはできない。間違いなく呆れられる。でもこれだから、彼は自分を追い詰めすぎてしまうのだ。融通が利かなすぎるから。


 僕もマリーも、もちろんショーンだって、彼が思っているほど子どもじゃない。自分の身の回りのことくらい、自分でどうとでもする。洗濯物や洗い物が山とたまっていようが、放っておけばいいのだ。それで困るようなら、各々自分でどうにかする。コウが気を回すことじゃない。


 ああ、僕はコウの今の疲労が、これまでと同じ過剰な気遣いのせいだと思いたいらしい。論点をずらして、僕たちの問題から顔を背けたままでいたいのか。


 急に、そんな自分に気がついた。意識してエリックを思考の外に追いやっていることに。それに忌々しい赤毛とあの少女のことも。

 聴きたくないのだ。だからコウにまだ目覚めないで欲しい、と心の底で願っている。


 コウが眠っている間は、僕はどこにも行けない彼を眺めて安心していられるから。


 コウは僕だけのものなのだ、と。


 そして彼の背負うものも、抱えている想いもすべて無視して、固く閉じられた彼を愛撫するのだ。決して僕を拒絶することのないコウを。


 これではまるでエリックだ。

 彼の執着心に(さいな)まれて、僕までが病的な想いに囚われているなんて。



 コウの着替えとタオル数枚掴んで、足早に部屋に戻った。わずかに離れているだけで不安になる。コウがどこかへ行ってしまいそうで。


 そんなはずはないのに。彼はちゃんと僕を待っていてくれるのに。


 ベッドに横たわっている彼を見て、ほっと息を継いだ。ああ、だけどタオルを濡らしてくるのを忘れていた。


 バタバタと何度も行き来したあげく、ようやく寝苦しそうな彼の服を脱がし、――愕然とした。


 理由(わけ)がわからない。


 彼の腕、細い肢体、柔らかな肌にくっきりとついた赤い痣。なにかが巻きついたような。紐のような均一な太さのものじゃない。布か何かをきつく巻きつけたような痕だ。


 広く、細く、コウを縛る、何か――。


 これが、エリックが口では説明できない赤毛とコウの関係性?


 あり得ない妄想に眩暈を覚えた。そんな遊び(プレイ)でつくような痕じゃない。これはまるで、包帯の解けかけたミイラを宙吊りにでもしたような、そんな。



 ――あの銀髪の子がすんでのところで捉まえて、坊やの可愛い顔が地面に叩きつけられずに済んだんだ。


 布を巻きつけて?

 どこから墜ちたって?


 ペントハウスの屋上から転落して、セキュリティネットに引っ掛かったところを、布かなにかを巻きつけて、引きあげでもしたのだろうか。


 コウの身体に痛々しく残る赤い痕の、それが僕には一番納得のいく説明に思えた。エリックの言い分とも辻褄が合う。コウはその事故でショックを受けて体調を崩したに違いない。繊細なコウは、もともと自律神経に変調をきたしやすい子なのだから。


 

 それにしても。

 

 最初見たとき、赤毛の火焔のタトゥーのようだと思ったのだ。あの焔がチロチロと蛇の舌のように伸びてコウに飛び火して、燃え包んでしまおうとしているのか、と。

 そんな、あり得ない妄想を描いていた。まるで赤毛の呪縛じゃないか、と。



 擦ったところで、この痕がすぐに消えてなくなるわけでもないけれど。

 この青白い肌の血行を少しでも良くして、この痛ましい痣が判らなくなるように。


 そう願い、僕は濡らしてきたタオルで強く彼の肌を拭っていた。

 

 


 

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