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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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エリック 2.

「話、話ねぇ――。それよりも、きみが自分の目で見ればいいじゃないか。世界がひっくり返るような面白いものが見れるよ。僕もねぇ、知りたいんだ。あの赤毛がきみに対してこうも及び腰な理由をね」


 エリックは再び、僕の喉元を片手で抑えてドアに圧しつけた。薄笑いを浮かべた冷ややかな表情で僕を見下ろしながら、取り払った僕の手も、もう一方の手でドアに圧しつけ拘束する。間延びした口調と、狂暴さを湛えた彼の瞳の色調がどうにも噛みあわなくて、不快でしかたない。彼の汗ばんだ指先は僕の首を締めあげたくてたまらないように、何度も力を込めたり、緩めたりを繰り返す。まるで指先で呼吸しているかのようだ。僕の身体が彼の酸素ででもあるかのように、取り入れては吐きだす。

 僕の意識はその一点に集中してしまい、言葉は、ただの音として通り過ぎていくばかりだ。


 エリックを宥めなければ――。


 車中で彼のことを尋ねていたバニーの危惧が脳裏をよぎる。今までも何度も聞いたことのある警告音が、頭の中で鳴り響いている。この状態の彼を適当にあしらうわけにはいかない。


「エリック」


 喉を抑えつけられている息苦しさを悟られないように、ことさら平静さを装って呼びかけた。彼の背中に腕を回して引き寄せる。

 

 僕に首輪でもつけたいのか、これはマーキングなのか、あるいは――。


「この手をどけて。それとも、僕を殺してしまいたいの?」


 彼の耳に口をよせ、甘えるように囁いた。強張った背中を優しく擦って。


「まさか、アル、そんなわけないだろ。僕はただ――」


 エリックは喉から手の位置をずらし、両手で僕の頬を包みこむ。彼の長い指が、ブルブルと痙攣(けいれん)を起こし震えている。何度も顔を小刻みに振って否定しながら、大きく見開いた瞳で僕を覗きこむ。彼の瞳孔が激しく拡大と収縮を繰り返し、水のように透き通った青が荒波に揺れる。


「僕はただ?」


 背中から胸に、それから同じようにエリックの頬を両手で覆った。コウと変わらないくらい、蒼褪めた顔。


 僕を殺したい。


 僕に知られるのが、そんなに衝撃だったの? 僕は当たり前に知っていたのに。


「ベッドにいこうか」


 エリックの乾いた唇を啄んだ。彼が正気を取り戻すように、とても優しく。この手のひらでいつものように僕を取り入れ吐きだして、満足して果てるように。





 この壁の向こうに、コウがいる。

 トパーズの柔らかな光を湛えた瞳で僕たちを見ている。すべての境界が取り払われた空間で、僕に彼を注ぎ込み、僕を彼自身にしようとするエリックを見ている。

 僕は、そんなコウの視線に酔いしれる。僕を食い散らすエリックの形は消え、コウの視線に包まれる。

 これまで、エリックとの間にこんな快楽を得たことはない。この快をくれているのは彼じゃない。僕を見ているコウの視線だ。胸を掻きむしる彼の想いが、僕を恍惚に導くのだ。


 これは、暴力なのだろうか。


 紗の幕のかかったような意識の向こうで、バニーが僕を呼んでいる。憂いを秘めた瞳で僕を見ている。


 分かっている。僕が間違っていることくらい。こうやって、僕は彼の依存を助長させてきたことも、ちゃんと解っている。本当は、僕はエリックに共感も、同情も、感じていないことも。僕は彼になんか興味はない。僕は保身のためだけにこうしているのだ。彼のためじゃない。


 そう、ただ、面白がっていただけなのだ。


 彼の皮膚が、僕を呼吸するさまを。僕を捏ねあげ輝く真珠にすり替えていく、彼の屁理屈のつけ方を。


 光沢を帯びた乳白色に輝く、丸く歪みない僕を内側で育てるエリックは、あこや貝だ。固くその殻を閉じ、僕だけを抱えこみ、彼の分泌液で僕を乳白色にコーティングする。


 エリックの抱える美しい真珠。それすら本当は僕ではない。彼はそんなふうに育てられてきただけ。


 これは復讐だ。


 彼は彼の母親になることで、彼女を理解し許そうと試みる。圧し潰し、縊り殺したい、と心の奥底で願いながら。




 彼の幻想の中にいるのは楽だった。何も考える必要がない。応える必要も。まして、こんな彼に対して責任をもつなんて――。



「エリック、赤毛はいったい何者なの?」

「話してもどうせきみは信じない」

「聞いてみないことには判らないだろ」

「きみが僕の話に耳を傾けてくれたことなんてあったかい?」

「僕はきみの心理士(セラピスト)だっただろ?」


 今は違う――。

 そのことを強く意識したのか、僕の上に圧しかかったまま荒い息を整えていたエリックは、拘束するように背中に腕を滑りこませ、僕をきつく抱きしめた。


「あいつは、あの赤毛は、人間じゃないんだよ。ほら、きみは信じないだろ? だから、あの坊やもきみのものにはならない。あの子は赤毛のものだ。きみにはどうやっても奪えっこない」

「どうしてきみは、彼は人間じゃないって思うの?」


 人間でないなら、なんだっていうんだ? 


 薬でもやって旅にでも行ってきたのか、それともアルコール依存症が進んで幻覚症状がでているのか――。だが、彼にとってはそれも内的現実だ。やっと引き出せた彼の言葉を否定することなく、あくまで柔らかく尋ね返した。


「口で説明できるようなことじゃないよ。だから、見にこいって言ったんだよ。知らせてやるよ。赤毛と坊や、あの二人がどういう関係か目の当たりにすれば、きみも諦めがつく」


 エリックはそれだけ言うと僕を放して、ゴロリと傍らに寝返った。放心したようにぼんやりと、天井を見つめている。


「この部屋は、病室みたいだな。最高級の家具を入れた豪奢な病室だ」


 ああ、確かに。それがこの贅沢感はあるのに寒々しいインテリアに感じていた違和感だ。

 服を身につけながら、僕も白い天井に目をやった。この部屋の境界は閉じ、隔離されたような閉塞感に満ち満ちた箱に戻っている。

 


「帰るよ。僕は明日からバカンスなんだ。コウの体調がよくなり次第出発する。しばらくここには来られないけれど、」

「きみはすぐに戻ってくるさ」


 僕を遮って、彼はいつもの彼らしいシニカルな笑みを口許に刷いた。だがもう気が済んだらしく、僕を引き留めることもない。


「坊やが来たら教えてやるよ。よい旅を!」


 視線だけで見送るエリックを尻目にドアを開け、僕は、この箱を閉じた。





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