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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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隠れ家 7.

 だが、コウを僕の腕に取り戻したのだ、などとほっとできたのも束の間のこと。

 彼は僕にしがみついたまま、ぐったりと動けないのだ。自分一人では身体を支え切れないほどに消耗しているなんて。こうしてやっとのことで抱きしめることのできた身体は、わずかな期間に一回り細くなったような気さえする。


 実感が湧かない。僕はコウを取り戻せたはずなのに。

 僕の腕の中にいるにもかかわらず、彼の存在は、なぜこんなにも薄いのか――。目には見えない何かが彼だけを包んで蝕んで、コウは分解されて消えてしまいそうで。


 ちゃんと意識を保てているのだろうか。

 不安になるほどぼんやりしているコウを横抱きにして、タープテントを出て室内に入った。振り返ると、テント下を照らしていた灯りは自動で消え、テラスは黒々とした闇に呑まれていた。

 ふと、境界を踏み越え、死者の国からぶじ光射す地上へ戻ってきたオルフェウスを思う。だが、僕と彼とは決定的に違う。僕はこの腕に愛する人(エウリュディケ)を取り戻している。こんなにも精気の削がれた、弱弱しい姿とはいえ――。僕は内心に巣くう不安に打ち克ち、コウを信じて、あの残酷な闇に囚われることはなかったのだ。


 眼前に広がるこの漆黒は、僕に(アーノルド)のこともまた、思い起こさせた。果てもなく底もない、収縮と拡大を繰り返しながら音もなく鼓動する虚空の胃袋に、彼は喰われたままだからか。その闇色の膜壁(スクリーン)に彼の映し見る彼女の残像はただの妄想に過ぎず、彼は孤独の膜内にたった一人で存在している。

 コウの語ってくれた夢幻郷(ユートピア)など、現実にはありはしないのだ。

 愛する人を失うことは死を意味する。これが、僕が彼から唯一得ることのできた教訓だ。それは対象の死であり、自らの死でもある。たとえ心臓は時を刻み肺は呼吸することを止めなくても、心は夜に溶け再び光を見ることはない。


 なぜだろう――。


 この闇の虚ろさがコウに重なるのは。夜が細くしなる蔦となって腕を伸ばし、コウに纏いついて引き掴み、呑みこもうとしているような気がしてならなかった。コウもそこにいたのではないか。コウもまた、彼と同じ歪んだ精神世界に囚われかけているのではないか、とそんな気がして、ぞくぞくと肌が粟立つような寒気を感じて仕方ないのだ。


 僕がこんな不安に囚われるのは、赤毛がコウを追い詰めるからだ。コウはこんなにも僕を欲しているのに、奴はコウを打ち砕き、踏み躙る。


 奴もまた、コウを失うのを怖れているから――。僕と同じように。



 誰もいないリビングから、そのままエレベーターへと向かった。早くこの場を離れたかった。そうしないと安心できない。ここはまだ赤毛の領域(テリトリー)だ。このまま奴が黙って引っこんでいるはずがない。



「アル、帰るのか?」

 

 エリック――。


「その坊や、もう少し休ませてからの方がいいんじゃないの?」

「連れて帰るよ。ここじゃ、コウだって気が休まらない」

「何をそんなに怖がってるんだ? 赤毛(ジンジャー)? きみらしくもない。彼なんて可愛いものじゃないか、まだまだオムツをしている赤ん坊だろ?」


 クスクス喉を鳴らして、エリックは手にしたグラスを煽る。僕が怪訝な視線を投げかけると、「これ? ジンジャーエールだよ。飲んで確かめるかい」と僕の鼻先にグラスをついと差しだした。その言葉通り、アルコール臭はない。


「きみも特殊な技を身につけたものだね。炭酸水(ジンジャーエール)で酔えるなんてね」


 見た目にもエリックは浮かれている。いつもの人を食ったような作り笑顔ではなく、自然に朗らかに笑っているのだ。こんな彼は、酔っているときくらいしか知らない。


「言い得て妙だな。確かにあの赤毛(ジンジャー)は僕を気持ちよく酔わせてくれるのさ。だから、今の僕は――、どちらかというと、」


 赤毛の味方か――。


 口に出すまでもない、ということか。それならそれでかまわない。どうせもう、僕には関係のないことだ。コウに、赤毛と縁を切るように言おう。それで終わりだ。


 エレベーターボタンを押し、ドアを開けた。そのドアを鼻先で閉められた。


「まぁ、そう焦って逃げ帰ることもないだろ? その坊やのために、身体が温まる飲み物を作ってやるよ。ずいぶん青白い顔色をしてるじゃないか。少し落ち着いてからにしろよ」


 エリックがくいと顎をしゃくる。僕の胸に頭をもたせたままのコウの頬は、確かに一段と血の気がない。低血糖だろうか。だとしたら――。


「コウ」


 焦点の定まり切らない瞳がゆっくりと僕に向けられる。だが目を開けていることさえ辛そうで、すぐまた瞼は閉じられた。意識が混濁しているわけではないようなのに。ついさっきまで、はっきりと話をすることだってできていたのに。やはり病院に、と決めたところで、エリックがまた口を挟んだ。


「寝不足なのさ。それに食べてないからだろ。大したことじゃないよ、アル。その子のためを思うのなら、軽く何か腹に入れてやって温かいものでも飲ませて、それから帰ればいい。それ以上、僕だって引き留めやしないさ」

「ずいぶん内情に詳しそうだね。それできみは、いったいどこからどこまで知っているの?」


 コウのためを思うなら、ここから早く立ち去るべきだ、と心は急いて忠告しているのに、僕の足は動かないまま。エリックを睨めつけて問い質していた。





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