隠れ家 4.
エリックに案内されるままに豪奢なアパートメントの入り口をくぐり、直通のエレベーターを降りて、赤毛の所有するペントハウスに足を踏みいれた。
無駄に広い。
エリックが躊躇なくドアを開けた先は、テラスを挟んでハイドパークを見下ろす窓が広がるリビングだ。景色を眺めるためにコの字型に設置された白いソファー。黒塗りの棚にモノトーンの写真の額。その横には白の胡蝶蘭。チョコレート色に塗装されたウォルナットの床に敷かれたラグも白。
とても赤毛の趣味とは思えない。本当に、言われるままここをまるごと買った、ということだろうか。
半ば呆れ返りながらぐるりと見回し、ふと天井に目をやった。
ああ、やはり奴はコウと一緒に、ここに住んでいる。
白い天井いっぱいに、焼け焦げたような黒い線で訳の分からない図形が描かれている。アーノルドの日記帳や、彼の人形のボディに描かれていたような、魔法陣。おそらくは。
「おーい、ドラコ!」
ぼんやりしていた僕を尻目に、エリックが大声で奴を呼んだ。
「お前に客だぞ!」
招かれざる、ね。
気を引き締めて奴が現れるのを待ったのに、コトリともしない。それにコウも。どうも人の気配すらしないのが気にかかる。スマートフォンには、確かにコウはここにいると表示されているのに。
エリックは赤毛を呼びながら、次々と部屋を覗いていく。当然、僕もその後に続く。ひと部屋が広いだけじゃない。いったい何部屋あるんだ? 使われている形跡のない幾つもの寝室を通りすぎ、キッチンや浴室のドアも開ける。なんとまぁ、設備の揃ったジムまである。でも肝心の彼らがいないなんて、あり得ないだろ。
「豪華なモデルハウスを案内してもらって恐縮だけどね、僕にはこんな分不相応な物件は買えないよ。欲しいとも思わないしね」
苛立たしさをたっぷりと皮肉に込めてエリックを睨むと、彼は軽く肩をすくめて、「ということは、テラスだな」と、今いる部屋のガラス戸を開けた。どうやら室内はすべて見終えたらしい。
夕暮れにはまだ早い。けれど風は冷たい。開かれた窓から吹き込んでくる風に、ぶるりと身震いする。エリックはぐるりと巡らされたテラスの角に消え、またすぐに戻ってきた。
「ここにはいないな。きっとメインテラスの方だな」と、くいと廊下を顎で示す。
いくら広いといったって、たかだかアパートメントのペントハウスじゃないか。それが、こうも見つからないなんて。
コウがわざと僕から逃げているような気がして、堪らない。そんなはずないのに。現にスマートフォンの地図には、ちゃんと彼の現在地が表示されているのだから。
苛立ちを隠せないまま、黙ってエリックの後に続いた。彼は、僕の焦りを楽しんでいるようだ。いるはずの彼らがいない、こんな状況に驚くこともなく。そんなエリックもまた不可解だ。彼はこんな不条理な状況はとても嫌がる性質だったのに。
振り出しのリビングに戻って、そこからまたテラスに出た。ウッドデッキで敷き詰められたテラスには、ところどころに丸や四角の形状に刈り込まれた植物の鉢やガーデンテーブルが置かれていて、ぱっと見、コウや赤毛がいるかどうかが判らない。それに、このテラスに面した別の部屋に続くタープテントの下は、陰になっていてここからはとりわけ見えづらい。だからだろうか。引き寄せられるようにそこへ足が向いた。
当たりだ。
タープの下のダイニングテーブルの向こう側に、隠れるようにベンチが置かれ、コウが横たわっていた。
可哀想に――。
彼の傍に膝をつき、そっと頬にかかる髪を掻きあげて、手のひらを当てて彼の温もりを確かめた。息をしていないんじゃないか、などとあり得ない想像をしてしまったほど、彼は憔悴していたのだ。
想像すらしなかった。
僕はただ。
コウが時間が欲しいと言ったから、僕はただ待つしかないのだ、と思っていた。彼がどんな状態でいるかなんて、思い遣ることもしないで。
「コウ、帰ろう」
血の気のない、冷たい頬を緩く擦る。コウの瞳は、僕を見ているのに見ていない。コウの瞳に映っている自分が、ただの影のようで怖い。
「きみは、いつだって僕を見つけてくれるんだね」
コウは軽く目を細めたけれど、わずかな仕草はまだ夢のなかにいるみたいに儚くて虚ろで。これが僕に向けられた言葉なのか、僕には確信が持てなかった。
「コウ、一緒に帰ろう」
じっと身じろぎもせず、僕を琥珀色の瞳に映すコウ。その首筋に手を差し入れて、頭を持ちあげた。ぐったりと重い。自分ではまるで力を入れることができないように。その重みに、腹の底から怒りが湧いていた。
コウがこんな状態にいることに。
僕のせいだ。コウが僕から逃げていたのではない。僕がコウとの間にあった扉を閉めていたのだ。僕に怒っているコウを見たくなかったのは僕の方。こんな薄情な僕のところへ、コウが戻ってこれるはずがなかったのだ。
だけど、僕だけのせいじゃないはずだ。たった一週間のことでコウがここまでやつれ果てるなんて。
赤毛はいったいコウに何をさせているんだ? どうしてこんな病的な状態にいるコウをほったらかしている? こんな、まるで精気を吸い取られてしまったみたいになるまで。
「そいつに触るな」
低く、重たい声が背後で響いた。
振り向くまで、それが赤毛だとは判らなかったほどの――。