隠れ家 3.
「おいおい、そんな怖い顔して睨むなよ」
口を噤んだまま睨みつけた僕を見下ろすように肩を引き、エリックはにやにや笑っている。彼から顔を背け、おもむろにカトラリーを握り直す。これがナイフでなくてよかった。こんなフォークを持っているくらいじゃ、僕の暴力衝動なんて簡単に食欲に転換される。
エリックは僕の反応のなさに、ふんと鼻を鳴らして手の中の鍵をテーブルの真ん中に置いた。
「で、きみはどういうつもりでここに来たんだ、アル?」
目許で笑いながら、指先で鍵をクルクル弄んでいる。
「きみの本命、本当はあの赤毛なんじゃないの?」
面白そうに僕の顔を覗きあげてくる。こんな挑発にのるわけないだろ。それに、どうしてここであの赤毛が出てくるんだ? 冗談でもよしてほしいね。
「行儀が悪いな、エリック。早く食べろよ。僕はもう食べ終わった。コーヒーが欲しい」
彼はすかさず片手を挙げて、ウェイターを呼んだ。半分も手のつけられていない皿をぐいと脇に押しやって、「コーヒーを」と微笑んで告げる。
運ばれてきたエスプレッソとティラミスは、ここのデザートでは一番人気なのだそうだ。コウが好きそうなのはエリックの皿、マリトッゾの方かもしれない。柔らかそうな丸パンの間に生クリームがたっぷりと挟まれ、ラズベリーのソースがかかっている。
「なんだ、こっちの方がよかったかい?」
「いや、これがいい」
そんなもの欲しげな顔をしていたのだろうか、と恥ずかしくなった。
自分が食べたいわけでもないのに――。
ふわふわとした純白のクリームはコウにはいいけれど、僕は、甘すぎずほろ苦いティラミスの方がいい。
「それで、決心はついたかい? こんなに迷うなんてきみらしくもない」
エリックは、人差し指で鍵をついっと僕の手許まで滑らせてきた。
「迷ってなんてないよ、初めからね。要らない。だから行かない」
ポケットからスマートフォンを取りだし、膝の上でチェックする。コウはまだ赤毛の家にいる。もう何時間にもなるのに――。今日もまた、夜中近くまでそこですごすのだろうか。食事はちゃんと取ってるのだろうか。
「こうして時間つぶしなんてしなくても、押しかければいいじゃないか。その合鍵で入ってさ」
僕が何をしているのか、解っているような口ぶりだ。
「まぁ、いいよ。その鍵はきみにやるよ。ついでにコンシェルジュに面通しもしておいてやろう。僕と一緒に一度通っていれば、次に来た時に引き留められることもない、どうだい、その方がいいだろ、アル」
「頼まれていた物件は赤毛に売ったんだろ? それなのに、きみはまだあそこに出入りしてるの?」
エリックは前屈みになっていた上体を跳ねあげて、声を立てて笑いだした。
「僕と彼はねぇ、いいお友達になったんだよ! 最高だよ、あの赤毛! 面白いったらない! だから僕が鍵を持っているってわけ。何もやましいことをしてるわけじゃないよ、アル。もっとも――」
エリックは今にも吹きだしそうに唇を震わせて、いったん言葉を切って僕の反応を窺う。
「彼、相当、きみのことが嫌らしいねぇ!」
わざわざ教えていただかなくても、それくらいのことは知っている。僕だって奴が嫌いだ。好かれたいとも思わない。それより問題はエリックだ。彼はすっかり新しく見つけたおもちゃが気に入ったらしい。
コウでなくて良かった。
あの赤毛のどこがいいのかは知らないが、彼の関心がコウへ向くのを逸らしてくれているのなら願ったりだ。
「さて行こうか。せっかく鍵をあげる、って言ってるのに、奥ゆかしいきみは勝手にあがり込むことができないみたいだしね。仕方ない。僕が連れていってあげるとするか」
僕の返事も訊かずに、エリックはウェイターを呼び会計を済ませている。確かに彼の提案は魅力的だ。こんなところで、いつまでともつかない時間を潰しているよりは――。
だが僕がエリックと一緒に赤毛に逢いにいくなんて、彼の部屋にいるコウはなんと思うだろう? コウがいないのならまだしも。
ただでさえ彼はエリックと僕のことを誤解しているのだ。いい気がするわけがない。
そんなことを迷いながら席を立つと、エリックが横にきてテーブルに置かれたままだった鍵を、僕のポケットに滑りこませた。そうすることが当然のように、僕の背中に腕をまわして。
これはコウのせいだ、という気がしていた。
コウがどこまでも僕から逃げようとするから、彼の力を借りなくてはならなくなったのだ、と。
僕はこんなふうに他人を介入させたくないのに。コウが折れてくれれば済むことなのに。
あんなに苦しげに泣くほど、きみは嫉妬に駆られているくせに――。
エリックといる僕を見て、怒るといいのだ。
そして、僕に気持ちをぶつけてくれればいい。僕が、ちゃんと受け止めることができるように。