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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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隠れ家 2.

 前菜は薦められるままにニョッキの黒トリュフソースかけを、エリックは地中海風牛肉のタルタルを頼んだ。

 先にエリックの前に置かれた新鮮な水菜やミニトマト、薄くスライスされたチーズや胡瓜で綺麗に飾られた木製プレートの上のタルタルに、コウならこれだけでお腹いっぱい、などと言いそうだなと頬が緩みかけたとき、プレートになぞ目もくれないエリックが、顔を近づけてきた。


「あの赤毛(ジンジャー)、とんでもない坊ちゃんだな。おかげでずいぶん儲けさせてもらったよ」

「儲けたって、彼、きみのところの上客にでもなったの?」

「上客なんてもんじゃない、桁違いだ!」


 ゆっくりと上体を起こし、エリックはやっとカトラリーを手に取った。そんなことをいきなり聞かされた僕の方が、食べるどころじゃない。けれどエリックを促すためにしかたなくカトラリーを手に、いつの間にか置かれていたニョッキを機械的に口に運ぶ。


「食感がいいだろ。ここは、食材にはかなり気を使ってるんだ」

 ワインと違って。などと、どうでもいい話に相槌を打ちながら、彼が再び赤毛の話を持ちだすのを黙って食べながら待っていた。そんな僕の波立った心を見透かしているエリックは、案の定じらしてくる。僕の方からねだるのを待っている。こういう駆け引きは彼のお手の物だ。下手に訊きだそうとしようものなら、どんな条件をだしてくるやら知れたものじゃない。だから僕の方もそんな焦燥は見せないで、黙々と食べることに徹するしかない。


 彼がここはメインよりもパスタがいいというので、メインは頼まずパスタにした。僕のは赤海老とアーティチョークのトンナレッリ。エリックは、マッシュルームと牛煮込みのフェットチーネだ。

 断酒してから、エリックはずいぶん食べるようになった。そういえば、こうして彼と食事するのも久しぶりなのだなと、彼の食べっぷりを見て思い至る。


「バニーの面談は順調に進んでいるようだね」


 頭を占めているコウと赤毛のことから自分自身の気を逸らすためにも、話題を振った。

 彼は酒が入っているときは、ほとんど食べないのだ。この食べようなら順調、問題なしということだ。


「おかげさまでね」

 言葉少なに応えて、にっと口の端を上げる。

「なにもかも、アル、きみのおかげだな」


 彼特有の嫌味かと思い、ちらりと見あげる。だが彼は、楽しげにフォークにパスタを巻きつけて平らげている。なんの含みもなさそうだ。

 そんな彼に比べて僕はというと、コウが海産物が好きだから美味しければまた一緒に来よう、と思って海老のパスタを頼んだのに、気が急いて味どころじゃない。エリックの余裕にじらされ落ち着かないままだ。


 やがてエリックも気が済んだのか、ペリエで口を潤してからやっと本題に入ってくれた。彼にしたところで、本音は喋りたくて仕方がないのだ。それに合わせて僕の方も食べるペースを落とす。


 

 赤毛の家――。信じがたいことにあの家は、エリックが彼に斡旋したものだというのだ。彼が知り合いに口利きを頼まれていた高額不動産物件を、赤毛は二つ返事で買ったのだという。

 それも、あの日のうちに。

 店を出ようとしていた彼を、エリックは前もって引き留めるようにスタッフに伝えていたらしい。そして僕と別れたあと、彼をそのペントハウスでもてなした。高価すぎて買い手も借り手もつかないそのアパートメントの一室を、エリックは管理人として使っていたのだ。

 

 そして、もうじき大学が始まるコウのためにこんな場所に家が欲しい、今住んでいるところはキャンパスから遠すぎるから、と言う赤毛に、冗談で「ここを譲ろうか」と言った。すると翌日、その値段に見合うものを彼は持参してきたのだという。


「不動産に見合うもの、ってアンティーク金貨?」

 あれは一枚が確か、3万ポンドだったはず。このアパートメントを買うには100枚か――。

 頭の中で計算していると、「ルビーだよ。3カラットはある、女王陛下の頭の上の、黒太子のルビーみたいなやつを、それも4つも!」とエリックが貪欲な瞳を輝かせ、声を潜めて囁いた。

「陛下の王冠はスピネルだろ」

「そう。だけど彼のは、正真正銘のルビーだったんだ。それも鑑定に持ち込んだ宝石屋が唸るような驚きの一品だ。おまけに駄賃だとダイヤモンドを一掴みつけてね。あのイカレッぷりには、僕の気鬱も吹き飛んださ!」

「それって、僕とバニーの面談に行く前の話ってこと?」


 なんて奴だ。

 呆れ返って、手にしていたカトラリーをカツンと置き、エリックを睨みつけた。素知らぬ顔でくだを巻いていた陰では、あの赤毛を(てい)よく手懐けていたなんて!


「そう、怒るなよ、アル。いいものをやるからさ」


 エリックがにやにやと笑って顔をぐいと寄せる。


「これが欲しいんだろ。どうだい、アル、この後、僕の部屋へ来るかい?」


 手品のように開かれたエリックの手のひらの上で、金色の鍵が光っていた。


 



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