時計 3.
バニーの部屋は清涼な香りがする。どこか懐かしいような森の香りだ。壁や床に使われている無垢材のせいなのか、ルームフレグランスを使っているのか、彼に確かめたことはないけれど――。
昼食時にろくに話ができなかったので、バニーが勤務時間を終えるのを待って、彼のフラットに寄った。軽い夕食を作ってくれた。その後はお決まりのコースだ。僕はいつものように彼のベッドにいる。それが当たり前すぎて、疑問に思うことは何もなかった。
「きみのタトゥー、今回のはなかなか消えないね。それどころか、ますます鮮やかさが増しているみたいだよ」
バニーの指先が背中の渦巻をゆっくりとたどる。けれど僕は手にしたスマートフォンに集中していて、そんな彼の刺激に反応することもない。
「アル、」
「こんな時間なのに、コウはまだ家に帰ってないんだ」
「やれやれ、何を言いだすかと思ったら――」
ぼやきながらバニーは僕の肩口にキスを落とす。軽いキスだ。痕が残るようなものじゃない。
「バニー、」
スマートフォンをサイドボードに置いて、寝返りを打ち彼と向き合った。
「気分がのらない」
本当は、そんな気分の問題じゃないと自分でも解っていた。苛立たしさが解消されないのだ。こうしていても――。
「その気になれないのはきみのせい? それとも僕の方がおかしいのかな? いくら海水を吸いこんでもじきに乾いてしまう、浜辺の砂のような気分なんだ」
片肘を立てて頭を支えている彼の顔を覗き込む。バニーは思慮深い瞳でじっと僕を見据えた。やがて大きな手のひらが、おもむろに僕の頭を彼の胸に引き寄せた。指先が、しなやかに心地良く髪を梳いてくれる。
「アル、きみはあまりにも自分を知らなすぎるよ」
やがて囁くように呟かれたのは、なんの脈絡もないそんな言葉で。強く抱きしめてくる腕から逃れるようにして、彼を見あげた。
バニーは銀灰色の目を細めてにっこりと微笑むと、こつんと僕の額に額を当てた。
「きみのその深淵な緑の瞳がどれほど人を惑わすか、きみはいまだに解っていない。こうして見つめているだけで、無意識の森の奥へと誘い込まれる。気づいたときにはもうお手上げだ。きみを手に入れるためにすべてを投げ打って彷徨うことになる」
バニーは体勢を変え、上にのって組み伏せてきた。柔らかな手のひらが頬を包むように添えられる。
「まさに女王の毒林檎だよ。命を落とすと解っていても齧らずにはいられなくなる」
それから彼は僕の下唇を軽く食んだ。継いで唇全体を。後頭部を片手で支えてのけ反らせ、舌をからめて僕を狩りにくる。
そうか――。
おかしいのはバニーじゃない。僕の方だ。何の味もしないキス。彼が僕を望んでいるのに、僕は応える気がないらしい。バニーは解っていて、僕を刺激するのをやめない。僕を求めることをやめない。それは、悲しそうであり、怒っているようでもあり――。
申し訳なさに、なぜだか、涙が零れて頬を伝った。
バニーは動くのを止めて、僕の上に頽れた。
「きみが悪いわけじゃない。お互い様だよ、アル」
掠れた声音で囁いて、両腕を回して僕をかかえ、ぎゅっと、強く抱きしめてくれた。
――スティーブのように。
無意識の水底に沈めたはずの、遥か昔の泡のような記憶が浮かび上がっていた。
彼もこんなふうに僕を抱きしめてくれたことがあったのだ。初めてあの男に逢いに行った日の帰り道だ。あの黒い鉄門を超えたところで、「きみが悪いんじゃないんだ」、と今と同じように言われた。
僕には、僕の何が悪いのかなんて、判らなかった。ただ、彼の声が震えていて、泣きだしたいのを堪えているように震えていて、僕は――、僕の大好きなスティーブを悲しませてしまっているのだと、胸が痛かった。
その時、彼が本当に抱きしめて「きみが悪いんじゃない」と言いたかったのは僕ではなくてあの男で、彼がずっと僕に優しいのも、ずっと僕を育ててくれていたのも、ただ、僕があの男の息子だったからだ、と確信したのだ。
どうして気づいてしまったのだろう――。
あんなに優しくしてもらっていたのに。彼の視線は僕を飛び越えいつも他の誰かを見ていることに、いつから気づいていたのだろう。ずっとその誰かになりたくて頑張ってきたのに。僕なりに努力してきたのに。彼の望むままに示された道を歩んできたのに。その誰かが、あんな――、この世の誰をも見ることのない男だったなんて――。
「バニー、」
彼の背中に腕を回して抱きしめた。
「ごめん――」
彼は僕の首筋に顔を埋めたまま、くぐもった声で応えてくれた。
「僕は喜ぶべきなんだろうな。きみは僕が抱えたなかでも、とびぬけて厄介なバイジーだったよ。――だからきみが、誰かを愛せるようになったことを、僕は心から嬉しいと思う。嘘じゃない。ただ――、それが僕ではなかったことが残念なだけでね」
もう一度くしゃりと僕の髪を撫でてくれてから、彼は身体を起こして僕に背を向けた。
「送っていくよ、アル」




