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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第三章
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時計 2.

 バニーの予約時間には充分間に合った。エリックが彼の愛車(ジャガー)をすっ飛ばして向かったからね。僕は二度と彼の車には同乗しないと心に誓った。


「僕が横にいるってのに、きみはスマートフォンを気にしてばかりだったな」

 車を駐車場に入れるなり、彼は早速嫌味を口走る。

「遅れるかと気になってね。きみの記録ファイルをもう一度確認して、先に送ってたんだよ。これから手渡しでは、目を通してもらう時間が取れそうになかったから」

 スマートフォンに気を取られていた理由は、本当はそれではないけれど。これだって嘘という訳でもない。


「きみが立ち会ってくれればいいのに――」

「それはできないって言ったろう?」


 面談室に着くまで、また堂々巡りのお喋りだ。こんなものは彼の不安を覆い隠すための無意味な会話にすぎない。僕はほとんど記憶に残らないような、おざなりの慰めを繰り返していた。



 だが心臓の縮むような走行時間を我慢したことで、面談を始める前に軽く雑談する時間が取れた。それは僕にとっても、彼に取ってもラッキーだったと思う。


 エリックはバニーを一目見るなり不躾にくっくと笑い、僕の肩を抱いて顔を寄せると、「なるほど、こっちが本命か。納得だよ」と囁いた。当然それはバニーにも聞き取れただろうが、彼が持ち前のポーカーフェイスを崩すことはない。

 エリックの誤解は不愉快だったけれど、コウに対してあんな嫌がらせをされるよりは、そう思われている方がマシかもしれないと思い直し、僕はあえて否定しなかった。



 ともあれこれでお役御免だ。「それじゃあ、よろしく」と、バニーと視線で確認しあい面談室を退出した。あとは彼に任せておけばいい。忙しい彼がアセスメントから請け負ってくれるなんて、例外中の例外なのだから。エリックだって、その有難味をすぐに身をもって経験することになるだろう。警戒心の強い彼が、すでにバニーに興味を持ち、ここに留まり治療を受ける気になっているのだから。


 なんといっても、バニーは――。

 言葉では形容できないな、彼の面談のもつあの包容力は。すべてを預けて安心できる、そんな彼の面談室。この扉の向こうは異空間だ。――これではまるで、コウの研究テーマのようだ。ある意味そうなのかも知れない。バニーの教育分析は、僕の持っている知識などでは計り知れないほどの未知の自分に気づかせてくれた。


 自分の研究室へ向かう道すがらに蘇ってきた、学生のころの懐かしい思い出に思わず口許が緩んでいた。「ご機嫌ですね」、とすれ違った看護師にまで笑われた。「いい天気だからね」と軽く肩をすくめてみせた。


 この蒼空に反して僕の心は、けして晴れ渡っていたわけではなかったけれど。





「昼食に行くよ。バニーと約束してるんだ。クライエントの引き継ぎを頼んだから」 

 腕時計の小さな画面上に簡潔に示されたメッセージを一瞥して、パソコンの入力作業をいったん終わらせた。

 

「ああ! もしかして『ハウンズ』のエリック? 聴いたよ。きみの紹介だったのか、なるほどね!」


 同僚のオルコットはわざわざくるりと椅子を回して、バカンスから戻ってきたばかりの赤く日焼けした顔を向ける。意味ありげなニヤついた顔は相変わらず締まりがない。僕は素知らぬ顔でデスクを離れた。


「ごゆっくり!」

「どうも――」




 待ち合わせたカフェに来てみると、バニーは早くからここにいたらしく、くつろいだ様子でコーヒーを飲んでいた。

「お待たせ。注文は?」

「これからだよ」


 僕はアボカドとポーチドエッグのチリトーストとラムチョップを、コーヒーと一緒に、バニーは、マッシュルームとリコッタのブルスケッタとパスタを頼んだ。


「今日はずいぶん食べるんだね」

「そうかな? いつもこんなものだと思うけど――」


 そういえば、今朝は焦っていてキッチンに寄らなかった。コウが出しなに何か言っていた気がする。彼の作ってくれた朝食や弁当を置きっ放しにしてきたかもしれない。とんだ失態だ――。

 つい軽く眉をよせてしまった僕を見咎めてか、バニーが宥めるような、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。


「彼のことがストレスになっているの?」

「誰?」


 しらを切って判らないフリをした。なんとなく、今はバニーにも立ち入って欲しくなかった。僕が愚かだということは重々承知している。これ以上の駄目出しは遠慮したかったのだ。


「誰って、きみの連れてきたクライエントに決まっているだろ? 呆れるな――」と、バニーはクスクス笑う。「何かあった? もう、それどころじゃない、って顔をしているよ」


 注文した皿が運ばれてきて、僕たちの会話はここで途切れた。

 パンにのったアボカド、その上に絶妙なバランスでそっと置かれていたポーチドエッグをぐちゃぐちゃに壊した。濃い卵黄がアボカドの緑の上に滴り落ちる。添えられていたレモンを絞りかけ、ナイフとフォークで切り分ける。バニーに応えることもなく、僕は皿の上での作業を淡々とこなしていた。下手に口を開くと、昨夜のコウとの一件が溢れ出そうだった。


 エリックのことなんて、もうすっぽりと頭から抜け落ちていたのだ。彼の話をするために、こうしてバニーと昼食を共にしているというのに――。





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