時計
寝過ごした――。
まぁいいか、エリックに迎えにきてくれるように言えば。
手首にはめたままの時計をぼんやりと眺め、おもむろに口許によせて要件を告げた。彼はこんな時間だというのにちゃんと起きていた。約束を守る気はあるらしい。車で向かえば、なんとかバニーの予約に間に合うはずだ。
覚め切らない気怠い身体を無理に引き起こし、ベッドヘッドにもたれかかる。疲労感からか、頭痛がする。けれど意識が鮮明になるにつれ、内側から湧きたつような興奮が蘇ってきた。コウが可愛くて、可愛くて――。
昨夜、コウを連れて部屋に戻るや否や、コウに目を閉じてもらって、その手首に買ってきたばかりの時計をはめた。文字盤を挟んだ赤と白の二色の交差する部分にオレンジ色が入る二重巻きタイプの本革製バンドは、思った通り彼の華奢な手首に良く似合う。
「目を開けて」
きっと気に入ってくれる、と誇らしい想いで微笑んで待ち構えていたのに、コウは口をへの字に曲げ、長い睫毛を瞬かせて困ったように見つめるだけだ。
「貰えないよ。誕生日でもないのに――」
「もうすぐ僕の誕生日だよ。お揃いにしたかったんだ。色違いでね」
シャツの袖を引いて、手首の内側を返して見せた。僕のはバンドが紺と白、それに碧だ。
「この色の方がいいなら――」
バンドを外しにかかると、コウは慌ててその手を押さえた。
「そうじゃなくて、こんな高価なもの、貰うわけにいかない。これ、スマートウォッチだろ? それも発売されたばかりのやつ」
「よく知ってるね。じゃあ、使い方の説明もいらないかな」
コウはアナログ派だとばかり思っていたのに、案外ちゃんと日本人だ。精密機器は好きらしい。
「ショーンが騒いでたから知ってるだけで――」
「いいじゃないか。コウならこんな物でも大事にしてくれるだろ? きみとお揃いにしておけば、僕も時計を失くすこともなくなると思うんだ」
「でも、」とコウはまだ悩ましげに口の中で呟いている。
「ね、コウ、僕のために――」
彼は、僕がしょっちゅう時計やアクセサリーを失くしてくることを知っている。時々「あれは?」って訊かれるから。そして掃除のついでに注意して探してくれたりするのだ。たまに運よく見つかれば、とても嬉しそうに手渡してくれる。
実際のところ、家の中を探すよりも、バニーかニーノに訊いた方が早いのだけど。ほとんどが誰かの部屋に置き忘れたか、落としたかなのだから――。でもさすがに、コウにそんなことを言うわけにはいかない。
それにコウは、僕のだらしなさを密かに気にしてくれているのだ。表だって注意されることはあまりないけれど、浴室や洗面台に置き忘れたものが、いつの間にかチェストの上に置かれていたりするもの。こんな僕と違って、コウは自分の持ち物をとても大切に使うのだ。どんな些細なものであれ――。
コウは小さなため息をひとつつくと、僕からの贈り物をわけもなく拒み続けることを諦めて、曖昧な笑みを浮かべて「ありがとう、大事にするね」と、僕の頬にキスをくれた。彼がわりにすんなりと受けとってくれたことが嬉しくて、それから僕たちはもう一度愛し合った。
その余韻が、まだ痺れるように皮膚の上に残っている。コウの感触が僕を満たして放さない。このままコウの匂いをまとって一日を過ごしたかったけれど、さすがに敏感なエリックに嫌味のひとつも言われそうな気がして、シャワーくらいは浴びることにした。
階下はしんと静まり返っている。ショーンもコウたちと出かけたのだろうか。マリーはまだ寝ているのかもしれない。
コウは昨日言っていた通り、バズと朝早く家を出ていた。その前に僕を起こしてくれていた覚えが薄っすらとある。いつも通りに――。バズはもう、この夏の間世話になるショーンの実家に帰ったのだ。僕たちはこれでまた、いつもの日常に戻れるはずだ。
そうゆっくりもしていられないな、と外した時計を一瞥してから、綺麗に磨かれたシャワーの蛇口を捻った。風呂好きなコウは自分は使わないくせに、ここの掃除も欠かすことがない。手早く済ませられるシャワー室は、僕専用のようなものだというのに。炊事だけでも赤毛に託したことで、彼の日々の負担は減ったのだろうか――。
シャワーを浴びながら、取り留めもなく考えていた。昨夜のこと。コウのこと。
昨日一日、コウは僕のことで傷ついていた自分を持てあまし、つれない態度を取っていたのだ。けれど結局は解ってくれた。僕の過去や、僕の周囲に対して抱えていたどうしようもない不安も、しょせん過去のことに過ぎないのだと理解してくれた。今、僕の心に住んでいるのはコウだけだと、解ってくれた。傍にいないときでさえ僕を支配し、僕の思考、感情、すべてに影響を与えるのはコウだけなのだ、と。
信じて欲しい――。
僕だってもう、あんな悲しげなコウの涙は見たくはない。コウが僕を喜びで満たしてくれるように、僕も彼を幸せで満たす存在で在りたい。
一晩かけて、そんなふうにコウと自分を納得させてはみたけれど、頭上から叩きつけるシャワーの飛沫が昨夜の熱を流し去ったあとに残っていたのは、いいようのない罪悪感だった。なにものにも代えがたい大切な人を、深く傷つけてしまったという歴然とした事実。けして僕の意図したことではなかった、といえども――。
彼の涙に、僕を想って流れた涙に、僕は初めて、いいようのない責任を感じていたのだ。




