ショーン 8.
食事を終えてからは、それぞれの部屋へ戻らずにソファーに移動した。けれど僕は、コーヒーを一杯飲んだだけで席をたった。「明日の用意があるから」と言い訳して。本音は、僕とコウの上に垂れ込める重たい空気に困り果て、皆がぎくしゃくしていたからだ。話題は僕たちには関係のない試験のことなのに。バズのためにこの空気を解そうと努めるほど、僕だって暇じゃない。僕が姿を消せばすぐに場は和むはずだ。
一人部屋に戻って、ベッドに転がる。もう8月だというのに、まさかこんなつまらない時間をコウとの間に抱えることになるなんて――。早く彼を宥めて誤解を解かなければ。拗ねているコウも可愛いけれど、ちょっと度が過ぎる。まったく、取りつく島がないというのはこういうのをいうのだな……。
僕までもが腐っていても仕方がないので、パソコンを開けバニーに渡すエリックの臨床記録をまとめることにした。
しばらく集中して作業していた。気がつくと夜もかなり更けている。一度居間に顔を出すと、コウだけがいなかった。まただ。「部屋に戻ったんじゃないの?」とマリーが怪訝な顔で訊き返す。「風呂掃除じゃないのか」とショーン。「ああ、きっとそうだね」と腰を浮かした彼を手で制した。「あとで顔を出すよ」と軽く流して――。
キッチン、家事室、倉庫、浴室にもいない。あと考えられるのはここくらいか、とスティーブの書斎のドアを静かに開く。
当たりだ――。
窓際に置かれた黄色い布張りの肘掛け椅子、スティーブのお気に入りの骨董家具の上で、コウは手足を縮めて子どものように丸くなって眠っていた。机上のスタンドライトの傘の向きを変え、驚かせないようにコウを避けて灯りをつけてから、ドアを閉め鍵をかけた。後から思い返すと、誰かに邪魔される以上に、コウに逃げられるのが怖かったのだと思う。
肘掛けに腰かけ、コウの頬にそっと触れた。涙の痕がある。可哀想に――。一人で悩まなくても、僕に直接ぶつければいいのに。きみの杞憂なんて即座に否定してあげるのに。それができないのが、コウなのだけど。
こんなにも可愛らしい僕のお姫様をキスで起こした。悪い魔女に食べさせられた毒林檎の欠片を、取り除いてあげなくては――。
びくりと痙攣して、ゆっくり瞼を持ち上げたコウは、僕を見ても驚いた様子も見せなくて、哀しげな瞳をまたじんわりと潤ませた。
「どうして泣くの?」
零れた涙を指先で拭う。
「きみが――、カメレオンだからだよ」
マリーか――。
とっさに返事ができなかった。頭の中で考えていた言い訳が、すべて消し飛んでいた。エリックのことくらい、いくらでも誤魔化せると思っていたのに。
コウは僕の過去を知っているのだ。僕がどんなふうに言われてきたのかも――。
誰の前でもその場限りの色に染まるカメレオン。そこになんの情を介することなく。だから彼らは僕と遊びたがる。影響を与えることも受けることもなく、後腐れなく、その一瞬だけ色鮮やかに発色することができるから――。けれどそんな彼らとコウは違う。コウだけが違う。
きみが心を痛めるようなことじゃない。
「カメレオンにだって心はあるんだ」
床に膝をついて、椅子の座面で膝を折り曲げ抱え込んでいたコウの手を取り、その薬指に留まる銀の蜥蜴にキスを落とした。僕が捧げた信頼の証に。
「僕はきみの前で、いつだって正直な、本当の僕でいたつもりだよ」
彼の手のひらにキスを落とした。心からの懇願のキスを。
「僕の心はきみを選んだんだ。後にも先にも愛するのはきみだけ――」
彼の剥き出しの裸足の足の甲にキスを落とした。主人に忠誠を誓う奴隷のように。僕はコウに支配され繋がれた奴隷だ。彼の愛と慈悲を乞うためならなんだってする。コウがびくりと足を引いた。狭い椅子の上で、いやいやと拒むように位置を変える。
「僕を嫌いになった?」
ぎゅっと目を瞑り唇を引き結んだまま、コウはふるふると首を横に振る。嗚咽を我慢しているのか、幾度となく喉が上下する。
彼の両脚を座面から下ろし、彼を抱きかかえてくるりと身体を反転した。そのままの勢いで僕が椅子にドサリと腰を落とす。コウを抱えたまま。
「きみをひどく傷つけてしまったのは、これ?」
コウのうなじにかかる黒髪をかきあげて、滑らかな肌に唇を落とし強く吸いあげる。柔らかな皮膚はわずかな刺激で鬱血し、ひとひらの花びらのような痕を残した。
「あのとき、僕はとても気持ちを波立たせていて――。きみと赤毛の関係性にひどく嫉妬していたんだ。それで、エリックの機嫌を損ねてしまった。彼はね、友人であると同時に僕のクライエントでもあるんだ。とても慎重に向き合わなければならないのに、僕はきみのことに気が取られていて、しくじったんだ。僕の肩にある痕は、そんな僕へ彼が下したちょっとした罰。つまらない嫌がらせだ。だから、コウ、きみが気にするようなことじゃないんだ」
僕の首筋に顔を埋めたまま、コウはまた華奢な首をふるふると振る。
「誤解だって解ってくれた?」
気持ちが落ち着くように、彼の背中を優しく擦った。毛を逆立てた猫のような、ピリピリとしたコウでさえ愛おしくて、鎮めるというよりも、彼の剥き出しの神経に触れ、刺激して、より煽りたいような――。そんな欲望が指先から染みでていく。
「苦しいんだ――」
コウはゆるゆると僕から身体を離し、濡れそぼる瞳を真っ直ぐに僕に向け、絞りだすように、とつとつと、ようやくその胸の内を明かしてくれた。
「僕は、きみの友人たちが、怖いんだ。彼ら、みんな、きみのことがとても好きなんだって、解るから。僕よりもずっと、きみのことを理解していて、きみに相応しいんじゃないかって、そんな不安で苦しくなるんだ」
「僕に相応しいかどうかは、僕が決める。僕が好きなのはきみだよ、コウ」
深く皺の刻まれている眉間に、キスを落とす。
「僕は、きみがカメレオンだって、知っていた。知ってて、好きになったんだ」
コウの閉じられた瞼から、また涙がとめどなく溢れてきた。僕はそれを唇で受け、舌で舐めとる。愛しさが溢れて、身体が熱い。コウの言葉が、率直な心が、僕を刺激し掻きたてる。
「どうして人は人を好きになるんだろう? ――どうして僕は、こんなにもきみが好きなんだろう?」
「テーベのスフィンクスだって、そんな難解な謎をだしたりはしなかったよ。きっと、その謎を解き明かすために、人は人と愛し合うんだ。僕たちのように――」
コウの唇を優しく塞いで、その苦しげな吐息を呑み込んだ。僕はきみの苦しみでさえ、僕のものにしてしまいたい。きみを食べ尽くして、僕自身にしてしまいたい。僕のなかに閉じ込めて。僕できみを包んで。
誰にもきみに触れさせたくない。この想いは、きみも同じなんだね、コウ――。