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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第一章
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疑惑 4.

 こんな軽口を交わしていても、いつもならとうに熱によって溶かされているはずの苛立ちは、根雪となって積もりに積もり、重く冷たく凍り固まったままだった。漆黒に染まる波涛も、寄せては返し荒れ狂い、昂ったまま鎮まることはなかったのだ。こんなこと、もうずっとなかったのに――。



「バニー、足りないんだ」

 しっとりと濡れた肌にねだるように唇を寄せ、脚を絡ませ、腰を擦りつける。

「僕では満たされないと言って、僕を捨てたくせに――」

 今一度僕を抱きかかえ、優しく髪を梳いてくれながら、彼はどこか揶揄うように呟いた。


 恨みがましいセリフを、こんなふうに笑って、いとも楽しそうに語るくせに。


「まさか、愛している、とでも言って欲しいの? コウみたいな涙を、きみが流せるならね――。コウみたいに全身で僕を拒絶して、心だけで僕を抱えてくれる?」

「そんな身体を抱いて楽しめるの? きみは存外サディスティックだね」 

「楽しい……、とは違うな。満ち足りるんだ。愛が恐怖に打ち克つのを目の当たりにして、いつだって心が震える」

「心が震えて、恋に落ちた?」

「きみには想像もつかないだろうね」

「解らないね」

「羨ましい?」


 そんな気なんてさらさらないくせに、当然のように彼は微笑む。もう何度同じ話をしたか知れない。彼はコウの話を聴きたがるから。初めは嫉妬なのかと思ったけれど、そうじゃない。彼はコウに興味があるのだ。彼の共感力に。包容力に。そして何よりも、僕を虜にした彼の個性に。


 コウの話をする僕を抱いて、「幸せそうな顔をしている」と言って彼は嬉しそうに笑う。「僕ではこんな笑顔はひきだせなかった」と。バニーにとってコウは未知の何かなのだ。だからいつも知りたがる。ベッドの上では特に。


「僕の手で本当のきみを引き出してあげたかったのに――。残念だよ。でも逆に考えれば、きみは彼とでは楽しめないんだ。そうじゃないのかい? だからきみはここに来る。彼はきみを満足させるには、幼すぎるんだよ」


 ここにいる理由――。それは、この部屋が、唯一自分の部屋以外で安心できる場所だからだ。この真っ白な白樺の森のようなこの部屋を、気に入っている。白く塗られた独特の香りのする無垢材の床が、素足に心地良いから。だからおそらく、部屋の主なんて、いようがいまいが関係ない。今だって僕がここに来た時分には、彼はまだ戻っていなかった。


 ――でもそんな理由では、彼は満足しないのだろう。


 彼の栗色の髪に指を差し入れ、絡みつく柔らかな感触を楽しみながら、喉仏に口づけ、舌を這わせた。


「解ってないね、バニー。僕は僕自身の攻撃性から彼を守るために、こうしてるんだよ。確かに彼は幼くて、身体も未熟で頼りなくて……。可哀想だろう? 僕は一日中だって、彼をベッドに縛りつけていたいのに」

「僕はきみの満たされない性欲の捌け口な訳だね」


 僕を抱きかかえたまま、バニーは寝返りを打った。柔らかな雪面に似た、吸い込まれそうな銀灰色(ぎんかいしょく)双眸(そうぼう)の中の僕が、僕を見つめる。


「きみくらいだもの」

「甘えられるのは?」

「誤解しないのは」

「確かに。役得だな――」



 納得いく理由を得て、彼の追求はここで止まった。言葉の通り、彼は行為を楽しんでいる。そこに愛など求めはしない。こうして僕のコウへの想いを、一風変わったスパイスとして振りかけて、料理を味わうように僕を味わう。



 コウ――。


 僕は信じないよ。きみが僕に何も話してくれないのは、何か理由があるんだろう? ずっときみの心に巣くっている何かが、きみをまた、以前のような殻の中に閉じ込めようとしているんだろう? 僕がきみを傷つけたくないように、きみもまた、自分自身を恐れているんだろう? それを、話してくれさえすれば――。



 コウを想い、彼を強く引き寄せた。もっと強く、と腕を絡める。



「……アル、」

「――――」

 返事をした。けれど、声にならない。掠れた吐息だけが喉を抜ける。


「アル、」

「もっと。来て、バニー――」


 喘ぎながら、彼の筋肉質な背中に爪を立てた。錨のように。手のひらの下で蠢く線維のゆるやかな波に、呑まれて沈んでしまわぬように。



 ああ――。


 帰ろう。コウが眠らずに僕を待ってくれている。きっとまた、僕のベッドで僕の匂いの染みついたシーツをきゅっと握りしめて。そして僕を見つめてほっとしたように微笑むんだ。「おかえり、アルビー」て。それから、優しいキスをくれる――。


 コウ――。


「愛してる」



 波が、引いていく。怒りの沁み込んだ重い砂を引きずって――。






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