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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第二章
56/219

夜 6.

 約束通りマリーたちに他の客を紹介してからオーナー室に戻ってきたエリックは、ソファーではなく執務机に向かい黒革張りのアームチェアに腰かけた。


「この中国人、今のきみのお気に入りは彼なんだろ?」

 机上のパソコンモニターを顎でしゃくる。

「日本人だよ」

「変わらないだろ」

「違うね」


 不快に眉をひそめ、彼の横からモニターを覗きこむ。四分割された画面には、つい先ほどまでいた部屋が角度を違えて映っていた。


「防犯カメラ?」

「隠しカメラ。なにかあったときのためだよ。内緒だよ、アル。うちはプライバシー厳守だからね」

「分かってる」


 つまり、初めから彼はここで僕たちを盗み見ていたってことか――。


 軽蔑を込めてエリックを一瞥すると、彼はにっと唇を歪めて嗤った。


「べつに、きみのプライベートに口だししようなんて思ってないよ。きみが僕をないがしろにさえ、しなければね」

 言いながら、彼はデスクについた僕の手の上に手を重ねる。不健康に蒼白く血管の浮きでた手なのに、感触は柔らかく湿っぽい。その手を滑らせて、そして背後からもう一方の腕もまわして彼は僕を囲いこんだ。


「アル、僕は今、最高に気分がいいんだ」

 僕を自分の上に抱き抱え、エリックは掠れた声でささやいた。

「すごく不思議なんだよ。頭の中を覆っていた靄がすっかり晴れてしまったような、そんな変な気分なんだ」


 なにが言いたいんだ?

 

 首を捩って、肩越しに彼を見た。エリックはモニターをじっと凝視している。コウと赤毛。部屋を出たときと同じように窓ガラスにもたれて話をしている。僕といたときよりもずっと、寛いだ様子で――。


「それはあの赤毛(ジンジャー)と関係があるの?」

「そうなのかな――。僕にもよく判らない。でも、さっきのあの焔、あれを見ていたら僕の中の湿ったなにかが――、そう、蒸発したみたいに消えてしまったんだ。それは確かだよ」

「訳が解らないな」

「僕だってそうさ」


 笑いながらエリックは僕の首筋にキスを落とす。強く吸われた。きっと痕が残る。肩を捻って拒絶したけど、彼には止める気はなさそうだ。くっくっと喉で笑われた。


「怒るなよ、アル。嫉妬はいいカンフル剤になるよ。あのおぼこい彼でも、少しはきみの想いが解るようになるんじゃないのかい?」

「よけいなお世話だ」

「だろうね。つまり、僕にしてみても、そういうことってことだよ」



 コウと僕の噂を知っているのか――。まさか、今晩だけのことでコウと僕の間柄を察して、僕の彼への不満を読みとった訳でもないだろうに。

 エリックは、昔から他人の内に潜む欲望にとても敏感だった。まだ学生のうちからこんな店を持つほどになれたのも、彼が人の欲望を引きだし叶えてやる能力に長けていたからだ。そして、あっという間に今の地位を築いた。他人の際限のない欲につき合っている自分に、吐き気を及ぼすほどの嫌悪感を抱きながらね。そして、そんな自分自身へ向ける憎悪をアルコールで紛らわしながら――。


 だから彼は、僕にとっても心地良い存在だったのかもしれない。僕と彼は似た者同士だから。そう、今までは――。

 でも、もう要らない。僕にはコウがいる。



 僕を刺激する彼の手に、彼の息遣いに僕が応えないことにエリックは苛立っていた。ふいに彼は身体を離すと、身を捩って腕を伸ばしキーボードに触れた。

 コウの声が流れだす。だが、思った通り。モニターで部屋の様子は覗けても、彼らの会話は日本語だ。盗み聞くことはできない。


「どこの国の言葉だって?」

「日本語だよ」

「なにを話しているか、知りたいだろ?」

「そこまで悪趣味じゃないよ」


 頭をのけ反らせてエリックを睨んだ。


「アル――」


 エリックが僕の首を強く押さえた。


「僕に飽きた?」

「そうじゃない。きみのことを真剣に考えての話だって言ったろう? 僕がきみのためにできることの限界が見えたんだ」

「分かったよ、アル。きみがそう言うのなら――。今日だけ。今だけでいいんだ。ちゃんときみの紹介してくれた病院に行くから。約束する。それにほら、」



ありがとう(サンキュー)

 エリックに促され振り返ったモニター画面の中で、コウはボーイから飲み物を受け取っていた。

「はい。きみが一番好きなやつを頼んだんだ」



 コウの声に少し遅れて抑揚のない声が重なる。そしてご丁寧にも、画面下には翻訳テロップまで表示されているではないか。


「僕はきみの望んでいるものをちゃんと差しだせる。そうだろう、アル?」

 エリックの腕がまた僕を捉まえる。

「翻訳機と連携させてるんだ」

「音はいらない」

 声が重なって、かえって聴き取りづらかった。


「あれはカクテル?」

 画面の中で、コウは赤毛にはにかんだ笑みを見せ、くし型のライムの飾られた銅製マグカップを渡している。


 みっともない――、と我ながらうんざりしているのに、昼間と同じように僕はまたコウを監視しているわけだ。エリックはそんな僕を見透かしているかのように楽しげに、わざわざ解説までつけてくれる。


「モスコミュールだな。なるほどね。きみの彼、酒類は好まないのかと思ってたのによく知ってるね。あのカクテルの意味、仲直りしよう、だものね。あの二人そんな関係なの?」


 エリックには答えなかった。じっと画面と、その下部の翻訳を目で追っていたのだ。



 拗ねた瞳で、赤毛はじっと手の中のジョッキを見ている。


『お前が喜ぶと思ったんだ』

『え――』

『だって、前は、綺麗だって喜んでたじゃないか』


 コウはぽかんと赤毛を見つめ、ふいにクスクス笑いだした。


『そうか、そうだったんだね。ありがとう、覚えていてくれたんだね――』


 嬉しそうに笑いながら、コウは胸元に掲げていたジョッキの中身を空中に振り撒いた。


 透明な氷の塊と淡い琥珀色の飛沫が、きらきらと高く飛び散る。光を乱反射していた氷は瞬く間にジュッと白い湯気になって消え、細かな飛沫は小さなシャボン玉のような丸い雫となって宙に留まる。そしてそれは、ぽわりと透きとおる焔に包まれて、くるくると旋回し始める。その上に被せるように、赤毛もまたジョッキの中身をぶちまけた。


 狭いモニター内で繰り広げられる、大小さまざまな黄金色(きんいろ)の焔の蝶の乱舞――。


「彼の奇術(マジック)の腕前は大したものだね」


 僕の肩に顎をのせてじっと画面を眺めていたエリックが、感慨深げに呟いていた。




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