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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第二章
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夜 2.

 それに、こんなふうにコウが少しでも甘えてくれると、僕は愛しさで満たされて他のことは本当にどうでもよくなってしまうのだ。

 彼の髪に指を通し、整えるように優しく梳いた。

 抱きしめて、キスして、それから――。このまま時が止まってしまえばいいと思う。僕にはコウだけがいてくれればそれでいい。


「あ、それでね」

 コウが思いだしたように視線をあげる。彼が口を開くとこの充実した時間が様変わりしてしまうんじゃないかと、この可愛い口を塞いでしまいたくなる。だって、どうせ、でてくるのは――。


「ドラコに椅子のことを訊いたんだ」


 ほら、赤毛のことだ。気になっていたとはいえ、今はどうだっていい。僕と二人でいるときは僕だけを見ていて欲しいのに。コウはいつだって僕の期待を煽るだけ煽って裏切るのだ。だからもう赤毛の名前なんて聞かなくていいように、コウの口を唇で塞いだ。


「ん――」


 苺とミルクの味がする。甘いな、とても――。


「アル」

「ん」

「アル!」


 コウは僕を睨んで軽く押し退けた。ひどいな。拗ねて彼を睨んだのだけど、彼の方こそふくれっ面をして唇を尖らせている。――ねだってるみたいに。


「真面目に聴いて!」

 もう一度苺味の唇を啄みたかったのに、手のひらで遮られた。

「今話す必要があるの?」

「きみだって気にしてたじゃないか!」


 コウはどうして、こうも生真面目なんだろう――。

 少しくらいアルコールを入れてやれば良かった。僕のこと以外全部忘れてしまうように、酔わせてしまえば良かったのだ。憮然とため息がついてでたよ。



 とはいえ、あまりふざけているとコウは本気で怒りだしかねない。彼に謝って話を聴いた。なんだか眉唾な話だったけれどね。


 あの赤毛が叩き壊した椅子――。あれを修理したのは、このところ夕食を賄っている赤毛の知り合いの実家なのだそうだ。料理が専門というわけでなく、本職は何代も続く家具工房か何からしい。託した椅子の受け渡しの連絡をもらったさいに、コウは晩餐の人数の伝言もしたのだそうだ。7人分の椅子が必要、と誤解した相手方は、急遽、工房にあった資料としてのチッペンデールの椅子をもうちに運び入れた――。と、そういうことらしい。


「つまり、その家具師がみればどれが偽物かすぐに解るっていうこと?」

「偽物って訳でもないんだって。あの椅子のデザインは、チッペンデールの(あらわ)した『紳士と家具師のための指針』って本に掲載されていて、同時期にいくつも作られているんだ。7脚目の椅子も18世紀に制作されたものだそうだよ」

「それでも、それはスティーブの椅子な訳じゃないだろう? 間違えずに引き取ってもらわないと」

「うん――」


 頷いたコウはどこか心もとないような、若干納得できないような顔をしている。制作年代からいえば、スティーブのものよりも7脚目の方が古いかもしれないからだろうか。偽物という言い方は、そぐわないように思えるのだろう。



 だが、そんなことよりも――。

 せっかくコウが正直に、ことの成り行きを教えてくれる気になっているのだ。ここで訊かない手はない。


「コウ、」

「ん?」

「それでディナーのとき、きみはなにを怒っていたの?」


 あのとき、コウは早口でなにか呟いていきなり赤毛を怒鳴りつけた。まるで訳が解らなかった。今ならコウだって、キッチンで話したときよりもずっと落ち着いて話せるはずだ。フロアほどではない会話の邪魔にならない音量の音楽と、ガラス越しに華やかに移ろうライト、水槽の中を上から覗きこむようにフロアから隔てられた非日常的なこの空間は、家にいたときよりもずっとコウを寛がせてくれているはずだ。それに癪には障るが、赤毛が羽を伸ばしていることにコウは心底安堵している――。


 真面目に彼を見つめる僕に、彼はなぜだか照れくさそうな顔をした。そして、そんな気持ちを誤魔化すように口角をあげる。


「ローストビーフの切り分けは、その家の男主人(ヘッド)がする、ってしきたりがあるだろ?」

 軽く頷いた。そのことで赤毛がうるさく絡んできたのだ。

「だからローストビーフを切る奴が、いづれこの家の主人になるように結びつけようとしたんだ」

「結びつけるって、なにに?」

「マリー。正式なジャンセン家の跡取りだから」


 まるで話がみえてこない。ローストビーフの切り分けとマリーがなんの関係がある? 軽く眉を寄せて首をかしげた。


「ドラコは、きみとマリーを結びつけようとしたんだ」

「肉を切ったのは僕じゃない。ショーンじゃないか。それじゃ、ショーンとマリーが結びつけられたってこと?」


 コウはうーん、と唸って首を傾げた。


「どうなんだろう? きみを縛るための(しゅ)だったはずだから――。ショーンの介入で失敗ってことになるんじゃないかな」

 

 どうも自信なさげにじっと考えこんでいる。ますます意味が解らない。


「僕を縛るための(しゅ)ってどういうこと?」


 何げなく訊き返しただけなのに、コウの表情は人形のように固まってしまった。その双眸は鏡のように僕を映し返すだけ。コウは完全に感情を隠して僕を拒んだ。僕は決して、赤毛や、ましてコウのことを、責めたつもりはなかったのに――。


 ああ、やはりダメなのだ――。




 コウの頭を両手で引き寄せ、胸にかき抱いた。


 コウは、自分が信じて探究している世界は僕には受けいれられないと思っている。僕に拒絶され否定されることを、いまだに恐れているのだ。僕は何度も、そんなことはないよ、と言葉でも態度でも示してきたつもりなのに――。


「僕を怖がらないで。確かに僕は、きみの分野の理解に(うと)くて、きみを不安にさせてしまうことがあるのかもしれないけれど――。絶対に、僕はきみを否定したりしないよ」


 コウの腕が僕の背中に回され、ぎゅっと力が込められた。


 こうして何度でも繰り返し伝え続けるしかないのだ。コウが信じてくれるまで――。僕は諦めたりしないよ。僕を恐れることなく、コウが、コウ自身をすべて見せてくれるまで、絶対に。


 コウは僕の胸に耳をつけ、心臓の音を聴いている。赤ん坊みたいに。彼を抱きしめたまま、軽く上半身を揺らした。流れるバラードに乗せて、揺りかごのように。ガラス越しのフロアでさざなむ波のように――。その波の中心でじっと立ち止まり、僕たちを見ている赤毛を睨み返しながら――。


 子どものお遊びのような(まじな)いを信じている、幼稚な赤毛。そんな奴の悪戯をはらはらしながら見守っているコウ。これではコウの気が休まるわけがない――。



「きみは特別なんだよ、アル」


 消え入りそうな声で、コウが呟いていた。





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