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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第二章
50/219

ゲスト 8.

 時間にしてみれば、ほんのわずかでしかなかったはずだ。だが戻ってみると、部屋をでる前とは打って変わって居間は静まり返り張り詰めた空気に浸されていた。

 コウのいないテーブルでは、赤毛は喋る気なぞ失ってしまうらしい。奴のかもしだす重苦しさに気圧されて、バズやミラ、それにマリーでさえも委縮している。カトラリーが立てるわずかな音さえ神経質に気にしながら、ちびちびと食事を進めていた、そんな様子がうかがえる。

 その中でショーンだけが、なにか場を和ます策はないか、と必死で思案していたのだろう。彼はすぐに静かに開けられたドアに気がついた。僕の顔を見るなり、そして申し訳なさそうな、はにかんだ笑みを浮かべたコウに視線を移すなり、ほっとしたような晴れやかな笑みを顔いっぱいに広げた。



「おまたせ」

 コウは朗らかに微笑んでグレービーソースをテーブル中央に置き、ワインをショーンの空いたグラスに注いでやった。ショーンはさっそく口をつける。

「ドラコ、このワインもきみの好みかい? こんな上等の赤、初めてだよ。すごく旨いよ!」

「俺が選んだわけじゃない。そんなもんで喜べるならいくらでも用意してやる」

 緊張を解くきっかけをやっと掴んだ、とばかりに話をふったショーンに、どうでもいいように言い捨てて、赤毛はタンッと椅子を引いた。席についたばかりのコウが、ほとんど同時にビックリ箱から飛びだすように立ちあがる。僕はテーブルを離れる赤毛を尻目に、思わずコウの腕を掴んでいた。

「大丈夫だよ。もう興奮して切れたりしない。ありがとう、アル」

 反対の手のひらを僕の手の甲に一瞬重ね、コウは囁くように言うと、戸口でふてくされた視線を流してきた赤毛につき従うように部屋を出ていった。



「何、あれ――。あの人、信じらんない」

 ドアが閉まるなり呟いたのはミラだ。「そう言うなよ。虫の居所が悪いだけだよ」ショーンがすかさず擁護する。

「あら、いつもあんな調子じゃない。今日は椅子を叩き壊されなかっただけでマシなくらい!」

 マリーは眉をひそめている。バズはさずがに賢明だ。よけいなことを言ったりしない。ただ心配そうな素振りでドアの向こうを眺めている。

 その気持ちは解るよ。


 そんな彼の不安にほだされたのだろうか――。


「すぐ戻ってくるさ。さぁ、食事を済ませてしまおう。この後の予定は? せっかくロンドンに来てるんだ。馴染みのクラブにでも案内しようか?」などと、つい余計なことを口走ってしまった。

「でも、僕はまだ、」

「平気さ。僕のツレをいちいち年齢確認したりしないよ」


 バズの表情が明らかに変わった。はにかみながら、でもいかにも期待に満ちた視線を向けている。


「そりゃいいな! 願ったりだよ!」

「素敵! どこがいいかしら? ねぇ、アルじゃないと入れないクラブに連れてって!」

 

 ミラがうっとりと瞳を輝かせている。


 やれやれ、僕までもが赤毛の尻拭いか――。


 いったいどういった風の吹き回しで、自分がこんな提案をしてしまったのかわからない。マリーが鼻をひくつかせながら僕を見ている。笑いを堪えているみたいだ。笑いたければ、笑えばいいだろ。


 ただの思いつきだ。でも、きっとコウが楽になると思ったんだ。コウにとって、バズやこのテーブルの面々のことを思い煩う必要がなくなるなら。




 スマートフォンを手にして、どこにいるか判らないコウにチャットで呼びかけた。すぐに返事が返ってきた。間をおいてドアが開く。


「すぐ出かけるの? デザートはどうする?」

 コウらしい質問だ。

 ショーンは軽く肩をすくめて考える素振りをしている。

「あー、うん。俺はいいかな。戻ってからもらうよ」

「私たちも! 部屋で支度してくるわ!」


 マリーはミラと腕を組んで、もういそいそとテーブルを離れている。コウは彼らと入れ替わりにドアを離れ、僕の隣に戻ってきて腰をおろした。


「バズ、きみも準備してきなよ。ジャケットはいるのかな?」と彼に呼びかけたあと、真顔で僕をふり返ったコウに、つい笑みがこぼれる。


「そんな堅苦しいところに行きたいの?」

「え?」

 きょとんとした素直なまん丸な瞳が、とてもコウらしくて可愛いらしい。良かった。赤毛とは冷静に話しあえているらしい。

「ご期待にそえなくて申し訳ないね。彼女たちには悪いけど、高級クラブに行くつもりはないよ」

「その方が助かる」

 バズがほっとしたように息をついた。だがやはり気になるようで、自分のTシャツの胸元を摘まんでしげしげと眺め、顔をしかめている。

「やっぱり着替えたいな。ショーン、シャツを借して。これじゃ、あんまりだからさ」

「そうだな、そこそこの店でもアルの基準だろ? その辺のパブで飲むのとは違うもんな。俺たちも支度してくるよ」


 ショーンとクラブで遊んだ記憶はないんだが。

 したり顔の彼に、つい苦笑が漏れた。



 

 二人が居間を出たところで、「ところで彼は?」と赤毛のことを訊いた。

「ごめん、僕たちは行けない。まだ話しあいの途中なんだ」

 悩みに塞がれた心を隠すように、コウは視線を伏せる。

「そう言うと思ったよ。きっとバズはがっかりするな。だからね、僕がきみの代わりに、彼を存分に楽しませてあげるから。コウは心配しないで」


 コウの額にかかる髪をかきあげ、キスを落とす。彼は僕の首に腕を回し、小声で「ありがとう、アル」とだけ呟いた。



 だが、コウとあの赤毛だけをこの家に残していくなんて――。そんなこと、僕に許せるわけがないじゃないか。まして最近のコウは、奴に対してこうも感情的になっているのに。


「でもね、行くだけはいっしょに行こう。きみたちだけでゆっくり話ができるように個室を取るから。それでいいだろ? そして、話がついたら僕らに合流すればいい。彼だって、その方がわだかまりなく戻ってきやすいと思うんだ」


 この提案に、コウは唖然と僕を見つめた。


「ドラコのため?」

「きみのため。それに僕のため。きみのことが心配だからね。でも、そう――、もちろん彼のためでもあるよ」


 コウの瞳が揺らいでいる。

 何を迷うことがある?


「それにバズだって、せっかくきみに逢いにきたのに、これでは気まずいんじゃないかな? でも、きみたちも来てくれて、遅れてでもいっしょにパーッと騒げたら、そんな嫌な気分もきっと解消する。マリーたちにしたってね。コウ、いっしょにおいで。こう言って彼を説得してごらん。少し、息抜きしようよ、ってさ」



 いたって良心的な僕の笑みを、コウは苦しげに見つめていた。だがやがて、心に巣くう迷いを吹っ切るように、笑って頷いてくれた。






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