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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第一章
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疑惑 3.

 白いシーツに限度いっぱい両腕を広げて。サイドライトの灯りを(はじ)く指先をひらひらと動かすと、白蝶貝の不透明な輝きが軽やかに羽ばたき。薄闇の中浮かび上がる腕は、まるでキャンバスに貼り付けられた白のモチーフ。この身体は鑑賞されるためのオブジェ。大いなる視線を前に全てを晒し、誘惑するための――。


 ほら、露出する樹肌から滴る蜜を求めてそっと闇に忍び寄る昆虫のように、しっとりとした感触が僕を絡めとる――。





 怒りを発散させるには、汗をかくのが一番手っ取り早い。体力を消耗させることで思考力は低下し、感覚はたやすく感情に勝利する。目を瞑り、神経を研ぎ澄ませるだけでいい。それだけで、いとも簡単に荒れ狂う波に呑まれる。後はもう、恍惚に揺さぶられ、意識を放り捨て、連れ去られるだけ。ただ息を詰まらせて、意志も、尊厳も、波涛に揉まれ揉屑と化していくのを眺めているだけでいい――。波が引いた後には、怒りは湿った砂に沁み込み――。やがてその湿り気さえも大気に紛れ――。さらさらと分解された粒子に還る。循環する熱のランダムウォーク。感情なんて、その程度のものにすぎない。


 


「時間は? まだいいのかい?」

「泊まっていく」

「おや珍しい」


 寝返りを打って、両腕を伸ばして彼を引き寄せた。その硬質な首筋を。蜜を求めて柔らかな唇を吸い上げる。機能につき動かされる昆虫のように――。そう、まだ足りないのだ。まるで足りない――。意志とは別の自動化された渇望が求めている――。

 


「何があった?」

「別に」

「きみらしくないよ」

「何もない」

「素直じゃないね。――最近の、きみらしくはないね。きみの可愛い子猫ちゃん(キティ)と喧嘩でもしたのかい?」


 ピクリと、彼の背に滑らせていた手が止まっていた。腹立たしさに、滑らかな皮膚にそのまま爪を喰い込ませた。さながら猫のように――。


 つっ、っと顔をしかめた彼を見て、思わず笑みが零れ落ちる。彼はそんな僕を見て、逆にほっとしたように口許を緩めている。変わらない――。


「もう以前のようには教えてくれないのかな? きみの可愛い小猫のこと」

「彼をネタに、論文にでも仕立てようっていうの?」


 案の定だ。彼に腕を回したまま、喉を鳴らして笑った。彼はもう僕のスーパーバイザーではないのに。未だにその気分が抜けないなんて。いつまでも僕の手綱を取り続けたい、そんな思惑を隠そうともしない。ここにはしばらく来なかったのに、彼は何も変わっていないのだ。


「アル、論文の素材ならきみにするよ」

 機嫌を取るように、彼は僕の耳朶を食む。

「スキツォイドの症例として?」

「性依存症の症例として」

「ひどいな」

「まさか自覚がないわけじゃないだろうね?」

「僕の見解では違うと思っているよ。強迫的な衝動に駆られているわけではないもの」

「それなら、きみが今ここでしている事を、どう解釈する?」

「自動的なただの性衝動(リビドー)だよ。健全な衝動の範囲内だ。汗をかくような運動がしたかったのもあるかな。それに――」


 ごろりと寝返って、彼の上にまたがった。聡明な額を覆う汗でしっとりと濡れた栗色の髪を掻き上げる。顎を掴んで、その灰色の瞳を覗きこむように見下ろした。


「きみがこんなふうに物欲しげな瞳で僕を見てたから――も、あるかもしれない」

「おや僕のせいかい? 心外だな。分析して欲しいくせに。今日のきみはいつもにも増して不安定だ。それに、きみの自己診断がスキツォイドとは、初耳だよ」


 僕の代わりに彼が答える。



 育ててくれたジャンセン家以上に、僕のことを知る先輩。今は精神医学研究所の上級研究員でもある、バーナード・スペンサー――。



 その耳に唇を寄せ、囁いた。



「邪な行為への理由づけが欲しい? それとも、飽きもせず、僕を解剖するのが好きなだけなのかな」


 この、ベッドの上で――。






スーパーバイザー…… スーパーバイジー(対人援助職者)がスーパーバイザー(指導者)から教育を受ける過程をスーパービジョンという。指導者が援助者と規則的に面接を行い、継続的な訓練を通じて専門的スキルを向上させることを目的としている。心理療法の臨床活動を行っている学生・研修生等には必須。スーパーバイザーは専門家として十分な経験があるだけでなく、他のアプローチも広く習得していることが普通。

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