ゲスト 3.
甘ったるい芳香を放つスコーンが、ひとつまたひとつとショーンの口の中に貪り食われていくのを、小気味良い思いで眺めていた。コウは、不機嫌さを露骨に醸しだす僕を困惑を押し殺した暗い瞳でチラチラと眺め、そんな彼の気を引こうとして声のトーンを上げているバズの思惑に気づきもしない。
僕がへそを曲げてしまったのは、僕の母の名を出したせいだ、とコウはちゃんと解っている。口に出してしまってから、彼は遅れて気がついた。おそらくは、僕のわずかな表情の変化で――。
僕に謝ろうと、コウの唇が震えていた。その朱が、僕を刺激し掻きたてた。彼の唇を押し開き、人差し指を侵入させた。舌先を、歯列をゆっくりとなぞる。
「そんなものよりコウを食べたい――」
薔薇の香りは砂糖の糖度でねっとりと重みを増し、空気を密にゆがませていた。まるでコウ自身をコーティングするように絡みついて。
彼の頬を滑る僕の指先は絵筆のように彼を染める。コウは慌てて後ずさって、腕を伸ばしてトレイを僕に押しつけた。「これ、お願い。僕はお茶を運ぶね。出すぎちゃったかな」と、ぎこちなく僕に背を向けて――。
そして今、彼を慕って訪ねてきたバズの前で、コウはぎこちない笑みを湛えながら、僕を捉えるためだけに全身の神経を張り巡らせている。内心では律儀にバズやショーンに申し訳ないと項垂れているのに、僕から意識を逸らせないでいる。だから僕はわざとそっけなく視線を窓に向け、会話に加わらない。甘い香りをわざと無視してこの場を顧みない。コウの心が僕への不安で震えている。その振動の心地良さに酔いしれる。
コウが悪いのだ。僕を怒らせた。あんな形で母に触れた――。触れさせた。どこの馬の骨とも知れない赤毛の知り合いに。そいつは熱烈な母のファンだったわけだ。だから赤毛に取り入って無給で働いてもいいなどと、そんな話になったに違いない。彼女が命を捨ててこの世に残した僕という息子を鑑賞したいのだ。話のネタに――。冗談じゃない!
コウがそんな話に加担すること自体、信じられなかった。誰よりも僕を理解しているコウが――。あの赤毛に丸めこまれたのか、すでにこの世にはいない母を今なお慕う心にほだされたのか――。どちらにしろ、これは僕への裏切りだ。僕の心にコウは目を向けてくれなかったのだから。
けれど、普段なら母のことを考えだすと嫌も応もなく沈んでどうしようもなかった心が、今回ばかりは違っていた。この眼前の観客が、そんな僕の流されやすい心をこの場に留める錨となってくれていたのだ。自分でも思いがけないことだった。
僕は怒っているはずなのに――。
僕に掻き乱されているコウを彼らに見せつけることのできる優越感の方が、怒りを凌駕しているなんて。
コウは僕のもの――。
そう確かめることのできた今、僕はもう怒ってなんかいない。それを教えるために、コウのうなじに手をかけてこちらを向かせ、唇を開いた。コウはほっとしたように笑って、スコーンの一片にジャムをのせ、僕の口許に、さらに大きく開けた口内へと運ぶ。獲物を得た食虫植物のように唇を閉じ、コウの指先まで丁寧に舐めとる。
コウの瞳は僕しか映さない。僕から逸れることはない。
僕は満足して微笑んだ。
「ね、アル、美味しいだろ?」
そうだね、僕のコウは蕩けるように甘い。
ショーンがバズを屋根裏部屋に案内するために部屋を出ると、コウは全身の力が抜けたように身体を折り曲げて、こつんと僕の肩に額を当てた。そしておずおずと面を起こして僕を見つめる。
「アル、ごめん。僕は本当に――、馬鹿なんだ。ひとつのことを考えだすと他のことが考えられなくなってしまって。きみの気持ちに上手く配慮できてなかった」
「コウは気づいてくれた。そして、こうしてきみの方から歩み寄ってくれる。僕はそれが嬉しい。僕ときみは解り合えているんだもの。ね、そうだろ?」
可愛い、コウ――。
さらさらの髪、小さな頭をかき抱く。コウも僕を抱きしめてくれる。
「僕は人の感情の機微に触れるのが苦手で――。こんなふうにきみを不愉快にさせてしまうのに、きみはいつだって僕をおおらかに許してくれて――、ありがとう、アルビー」
コウの心は温かい。その温もりが流れこんでくる。僕を満たしてくれる。ずっとこうして彼を抱きしめていたい気持ちと、そっと、おもむろに、この手を離してみたい気持ちがせめぎ合う。コウなら大丈夫だ、と。この手を離しても、きらきら光る絹のような糸で僕たちは結ばれているに違いない。断ち切れることのない絆で結ばれているのだ。試したいと思う。信じられる気がするのだ。離れても――。
「上を見てくるよ。バズの勉強をみてあげる約束なんだ」
もう一度、ぎゅっと腕に力をこめて僕の胸に頬を擦りつけてから、コウはゆるゆると身体を離した。
僕は軽く頷いた。コウの心が僕の方を向いていてくれるなら、微笑って見送れる――、はずだから。
そしてもしもまた、彼の視線が僕から逸れるのなら――、引き戻せばいいのだ。何度でも。




