ゲスト 2.
ショーンの従弟のセバスチャン・マクミラン、通称バズと呼ばれる子は、ありがたいことにその従兄とはまるで似たところのない子だった。コウと気が合う、というのも解る気がする。理知的で年齢の割りに落ち着いた子だ。そして控えめ。余計なことは言わず、訊かず、礼儀も心得ている。ただ気になるのは、彼のコウを見る眼つき――。ショーンとはまた違った意味で、バズはコウを意識している。コウが僕を紹介したときの、あの驚いたような顔。一瞬の内に浮かんで消えた諦観の色。ぞくりとした。彼の憧れるコウは僕のものなのだ、と誇示する僕の内側に垣間見えた勝ち誇った高揚感に――。
軽く挨拶を済ませてコウがいそいそとお茶の用意をしている間、ショーンと従弟と、居間のソファーでたわいのない雑談で時をやり過ごしていた。ショーンにしても、この従弟のことがお気に入りらしく、いつもにも増して口舌滑らかだ。この調子なら、僕が意識してこの子の相手をする必要もない、とコウを手伝いにいこうかと腰を浮かしたとき、「アイスバーグさんは、臨床心理士なんですよね?」と、唐突に僕の話題を振られた。
「アルでいいよ。うん、まあ、まだひよっこだけどね」
「だからかな、コウがあんなに穏やかで幸せそうなのって。ショーンたちとはえらい差だね」
笑いながら横にいる従兄を肘で突いている。ショーンは鼻の頭に皺をよせて苦笑いだ。
「バズ、バラすなよ! アルにまた呆れられるだろ!」
などと言いながら喋りたいのは従弟よりもショーンの方らしい。間髪入れず、ミラの愚痴が始まった。ショーンは今日、ミラを伴ってバズを迎えにいき、彼女も一緒にここへ来るはずだったのだ。だが玄関先にいたのはこの二人だけ。少し前に、マリーはあたふたと家を出た。ミラに呼びだされて。バズという親戚が訪ねてきているにもかかわらず、ショーンとミラはこの子の前で痴話喧嘩し、今にいたるというわけだ。
「コウはあなたと喧嘩したりしないんですか?」
ショーンの機関銃のような喋りの合間をぬって、バズは僕に話をふる。慣れたものだな、と変なところで感心する。
「そうだね、あまりないかな」
怖くて喧嘩なんてできないな――。
どうでもいいことで自己主張し合うなんて馬鹿馬鹿しいだけだし、本当に大切なことに触れるのは、怖い。コウの怒りが、拒絶が怖い。僕のために流す涙ではない、僕を拒むあの涙が何よりも怖い。
赤い一本の爪痕のような記憶が、耳に残る高い金属音に似た不快感を呼び覚ましていた。
「やはりそれって、アルが人の心ってものを専門的に知っているから?」
「――さぁ、どうだろうね。確かに心理学が役に立っている面もあるかもしれないね」
細い裂け目のような傷痕から目を逸らし、明るい、前向きな好奇心に輝く空色の瞳を見つめ返した。子どもらしい肯定的な好奇心だ。心理学でコウの心を僕に縛りつけておけるなら――、と一瞬そんな想いがよぎる。けれどすぐに、苦笑が突いてでていた。理論に沿ってマインドコントロールしたところで、そこで手に入るのは僕の好きなコウではない。そんな魂のない人形なんていらない――。
ふと、コウが、彼の学ぶ民俗学や魔術の話をすることを異常に恐れる理由に理解が及んだ。こんななにげない先入観、根拠のないイメージで自分が推し量られるのが、彼は嫌なのだ、と。知識のもたらしてくれる本当の理解、視界が開けるような慧眼、今まで知り得なかった世界に足を踏み入れるときのあの高揚感。それを悪意なき無邪気さで踏み荒らされる。彼のような好意的な無知であれば、許せもしようが――。コウには、無邪気さの罪を憎むことなどできないのだろう。それは罪であって罪ではないのだから――。
「僕も、心理学に専攻を変えようかな――」
「好きな子の心を掴むために?」
ぴくりと反応したバズは反射的に目を伏せていた。どうやら図星だ。彼は、僕からコウを奪いたいと思っているらしい。
「きっかけはどうであれ、僕の専攻分野に興味をもってくれるのは嬉しいよ。そろそろスコーンが焼きあがるころだ。手伝ってくるよ」
会話を打ち切って、立ちあがった。
僕に宣戦布告するなんて百年早いね――。
子どもらしいポーカーフェイスの崩れたバズをショーンが無神経に揶揄っている。そんなかしましい声を遮って、ドアを閉めた。
継いでキッチンのドアを開けようとしたとき、違和感からノブを握る手が止まる。話し声がするのだ。コウの声。でも相手の声は聞き取れない。電話中なのだろうか――、と、まず軽くノックした。とたんにしんと声が止む。間をおいて、コウの方からドアを開けてくれた。
「どうしたの、アルビー?」
コウが僕を見あげる。
「なにか、手伝えることはない?」
「あ、うん。じゃあ、お茶を持っていってくれる? ちょうど今、焼けたところなんだ」
コウは振り返ってオーブンを指さす。花のように甘い香りがキッチン内に充満している。ティーコジーが被せられたポットの傍らに置かれた砂時計は、すでに落ち切ってしまっている。
「電話の邪魔をしてしまった?」
「電話? してないよ」
「話し声がしてたのに?」
僕に背を向けて、焼きたてのスコーンを皿に並べていたコウの動作が、ぎこちなく止まる。ゆっくりと僕を振り返る。曖昧な、臆病な笑みを湛えて――。
「独り言。順番を確認していたんだ。――結局、夕食は何人分になるのかな? ミラは遅れてくるのかな?」
「どうだろう? マリーからはまだ連絡がないんだ」
「そう……。量を調整できるようにするよ」
「今日はきみが夕食の準備をするってこと?」
「あ、そう伝えておく。ブラウンさんに」
まただ――。またコウは赤毛を甘やかす。狡猾な赤毛の言い分を受け入れて、自分自身の意志は呑みこんでしまう。本当のきみは、いったいどうしたいの? 赤毛の言うことに従うのは、本当にきみの意志?
「このスコーンは彼ら――、ブラウンさんからきみにって。薔薇の香りがするだろ? それに薔薇のジャムを添えて食べるんだそうだよ。アビゲイルが好きだった、って」
大皿に盛ったスコーンと、ガラスポットのジャムから、甘やかな香りが強く漂う。古い記憶を揺さぶる、白薔薇の香りが――。そんなはずないじゃないか。アイスバーグは香らない。あの家ほどに群れ咲いていないと――。香料にする薔薇とは違う――。
「誰よりも、きみに食べてもらいたいんだ」
なぜここで母の名がでてくるんだ――。コウは教えてくれないのか? ショーンやバズの前で僕が尋ねたりしないとふんで、今、これを僕に差しだすのか。
コウの心が遠すぎて、見えない――。
 




