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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第二章
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雑事 5.

 研究室に一人でいるのが堪らなくて、バニーの医局に逃げてきた。

 バニーだって暇じゃない。この昼休みが終われば仕事に戻る。そのわずかな隙間の息継ぎだ。バニーに聴いてほしくて。それなのに、耐えられないほどの眠気に邪魔されて、思考が上手く働かない。


「自己嫌悪で首でもくくりたい気分なのに、欠伸がとまらないんだ」

「おや、物騒なことを言う。きみの言うこととは思えないな」

「おかしい?」

「首をくくりたいと言ってくる相手をひき留めるのが、きみの仕事だろう?」

「違いない」


 笑えない冗談に苦笑が漏れる。バニーは僕を軽く引き寄せてゴロリと横たえ、膝を枕に提供してくれた。


「そのままで」

「精神分析みたいに、カウチで気ままに喋らせようっての?」

「眠ってしまってもかまわないよ」


 バニーは彼の大振りな手のひらで僕の視界を覆ってくれた。

 わずかな重みと体温に、胸にわだかまるもやもやとした鬱屈が、吸い取られていくように心地良い。


「きみに自己嫌悪を起こさせたのはどっちだい? 子猫ちゃん、それとも赤毛?」

「コウだよ。コウ以外に有り得ないだろ? 彼を前にして僕は恥入り、自分自身を(さいな)み、消えてしまいたくなるんだ」

「恥――」


 バニーはここで言葉を切った。考えこんでいるのか、長い沈黙が僕をイラつかせた。


「何をしたの?」

「彼の承諾を得ずに僕の衝動を押しつけた」

「なるほど――」


 静かな、淡々とした口調だけど、意外感を隠せないようすでバニーは呟いた。


 まるで眠れる白雪姫を犯す精霊王の気分だった。太古から定められていた契約を実行するように、彼の中に侵入し、彼を支配する自分に恍惚とした満足を得ていた。そんなことを口にすれば、バニーから返ってくる言葉など判りきっている。


 ――幼児の万能感。


 笑い声すら聴こえてきそうだ。

 けれどバニーが口にしたのは、揶揄う調子なんて欠片もない、いたって真面目な分析だった。


「きみの口から、きみが、きみの衝動に責任を感じた、なんて聴かされたのは初めてだよ」

「僕はそんな無責任な男かな?」

「性に関してはね」


 バニーは被せていた手のひらを外し、僕の頬を指の腹で擦る。


「きみは性に依存して、きみ自身の衝動に対して何の責任も取らない、まったくの子供だ」


 僕は目を開けて彼を見つめ返した。彼の銀灰色の瞳はどこか哀しげで、僕に対する苛立ちとも、憐憫とも取れる深い色合いを湛えている。


「きみの性衝動は、これまで誰を相手にしようとマスターベーションと大差なかった。衝動を吐きだした次の瞬間には、もう相手の顔すら思いだすこともなかったんじゃないのかい? きみにとってセックスとはそういうものだ。だからこそ、衝動を彼にぶつけたことを、そんなにも恥じ入るんだ」



 コウは特別だ――。あんなふうに喰い散らかしていい相手じゃないんだ。コウは違う。コウだけが違った。どれほど喰らっても僕の中で彼は死ななかった。どれほど貪欲に求めても尽きぬほどに、彼の愛は深くて大きい。だから怖くて仕方がないんだ。いつか、彼がこんな僕に嫌気がさしてしまうことが。僕の卑しさに気づいて、顔を背ける日がくることが――。僕とコウは釣り合っていない。



「怖いんだ、バニー。コウがいてくれないと、僕の世界からは色彩(いろ)が消えてしまう」


 彼の首筋に縋るように腕を伸ばした。バニーは少し身を屈めて、僕の額にかかる髪を払ってくれた。


「きみの子猫に逢ってみたいな。慰労会には来るんだろう? きみが主役だものね」

「おおげさだな。僕だけのためってわけでもないだろ? コウは呼ばない。僕はマリーをエスコートするしね」

「きみの友人たち、皆、引き連れてくればいいじゃないか。チケットを用意しておいてあげる。かまわないさ。今年は大掛かりにするらしいからね。運営責任者がスコットだからね」


 ああ――。派手好き、お祭り好きで有名な奴だ。

 コウを晒し者にする気になんてさらさらなれないけれど、赤毛をバニーがどう分析するかは、知りたいような気もする。


「考えておくよ」


 曖昧な返事を囁いた。僕から目を逸らさない彼の視線がつらくて、目を閉じた。


「何時に終わる? 部屋で待っていてかまわない?」

「今日は遅くなるよ。抜けられない会合があるんだ」

「かまわない」


「アル、変わったね。きみが僕の許可を求めるなんて」

「失礼だな、僕はいつだってきみを尊重しているだろ?」



 バニーは僕にキスをくれた。


 とても深く。貪るような――。






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