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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第二章
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雑事 4.

 その夜はまるで気絶するように、ベッドに倒れこんでいた。コウの帰りを起きて待っているつもりだったのに、ぐるぐるとした混沌に巻かれ、引きずり込まれるように眠りの渦に呑まれていた。電気はつけっ放し、着替えもせず。

 久しぶりのアセスメントで、自分でも気づかないほどに消耗していたのかもしれない。


 夢とも現ともつかない意識の海を漂っていた。波にさらわれるまま、ゆらゆらと。そこは、コウの中にいるみたいに気持ち良くて。しっとりと熱く、柔らかく、被さり包んで。そして、刺激的な痛いほどの圧迫――。

 胸に感じた実感のある重みに、意識よりも身体が先に反応して抱きしめていた。さらりとした髪の感触。


「アル、どこにも行かないで」


 ぱっちりと目が覚めた。すっと風がぬけるような清涼な香りに包まれたコウの規則正しい呼吸と、自分の高鳴る鼓動が噛み合わない。コウは眠ってる。僕の胸に頭をのっけたまま。


 そっと彼を持ちあげ枕の上に横たえた。


 暗い室内では(おぼろ)な輪郭しか掴めない。安らかな眠りを邪魔しないように、彼のまっすぐな髪の毛だけを摘まんで指先で弄ぶ。



 夢の中でしか、きみは本当の気持ちを口にしてはくれないの? きみが行くなと言ってくれるのなら、留学を取りやめたっていいのに――。そんなこと、きみは今まで一度だって、言ってくれたことはないじゃないか。


 そう、たとえこれがコウの本当の想いであっても、彼の意志に沿っているとは言い難いのだ。コウは見かけほど幼くはないから。自分の想いと僕の未来を天秤にかけ、どちらを言葉に変えるべきかを慎重に見極める。


 コウは僕を愛してくれている。だから、夢の中でしか呟かない。僕に泣いてすがったりしない。僕を困らせたりしない。そのくせ――、こんなふうに僕を悦ばせてくれるんだ。こっそりと。自分自身にさえ内緒で。


 愛しさばかりが募っていく。


 だからこそ、僕はきみから距離を置かなきゃならない。僕のこの貪欲さで、きみを喰いつぶしたりしないように。もっと成熟した大人としてきみを愛せるように。きみが僕を愛してくれるように、僕はきみを愛したい。だから、僕にもっと時間を――。



 僕の想いに応えるように、コウは何か呟いた。


 それとも、吐息を漏らしただけ? その息を掴まえようと、彼の柔らかな唇を指で辿る。



 僕の未熟さを丸ごと呑みこんでくれるきみ。愛してる。これは僕が今まで知らなかった想いだ。きみがくれた感情だ。身体だけじゃなく心が連結(コネクト)する、こんな快楽を僕は今まで知らなかった。全部きみがくれた。きみからしか貰えない。僕の愛しい、コウ。



 きめ細やかな頬に指を滑らせる。華奢な顎。かすかに上下する細い喉。それから――、吸いつくような、肌。



 幸せがこんなにも苦しいものだなんて、僕は知らなかった。生きている実感が、こんなにも息苦しいものだということも。愛おしさに、圧し潰されそうになることも。たかだか情動を抑えることが、こんなにも苦痛を伴うなんて。



 もっと、触れていたい。


「コウ」


 ごめん、どうしようもないほど、きみが欲しい――。




 眠っているコウを犯した。まるでセックスを覚えたての十代前半(ローティーン)のように、劣情に押し流されるまま彼を貪った。我慢できなかったのだ。驚いていたけれど、コウは僕を拒んだりしなかった。彼を侵襲する僕の情動を何も言わずに受けとめてくれた。解っている。こんな幼稚な衝動は愛ではない。コウも気づいている。それでも僕を抱きしめてくれる。僕の身勝手な不安を愛で包んで返してくれる。釣り合ってないのだ。僕に喰い散らかされるコウ。コウに溺れて崩れていく僕。


 僕たちは、息も絶え絶えだ。





「これ、何の香りだっけ?」


 朝陽の中で、ちゃんと僕の腕の中にいてくれている彼に安堵して、何げなく訊ねていた。

 胸いっぱいに溢れていた後悔と、吐き気のしそうな自己嫌悪を、コウに悟られたくなかったのかもしれない。


「ん――、ローズマリーだよ。ほら、アンティーク市で買った石鹸の」

「目が覚めるような香りだね」

「きつすぎるかな? 気にいってるんだけど」

「いや、好きだよ、この香り」


 コウの香りだ。しっくりと馴染んでいる。きっと、昨夜はこの香りに刺激されたのだ。――そんな気がする。


 まだ眠たげなコウに軽くキスして起き上がった。こうしていることが、ひどくいた堪れない。早くひとりになりたかった。


浴室(バスルーム)に置いてある? 僕も使っていい?」

「もちろん」


 コウは目を開けるのさえつらそうだ。


「ごめん」


 彼の乱れた髪をかき上げる。

 愛しいのに。こんなにも愛おしいのに――。僕は何をやってるんだ。


「謝らないで。きっと、きみが思っている以上に、僕はきみが好きだよ」


 まるで寝言のようにもごもごと呟き、コウは薄目を開けて僕の手を取り、手のひらにキスをくれた。


「ほら、急がなきゃ遅刻するよ」


 キスを返したかったのに、猫のように気だるげに顔をこすりながら、コウは僕を急かして伸びをする。


「ん――」


 コウと朝の光は相性がいい。

 コウの存在が、僕の上に朝陽をもたらしてくれる。根深い闇を蹴散らして――。


 




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