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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第一章
26/219

模様 8.

 僕の淹れたお茶を飲んで、コウはまたベッドに横になった。「ごめんね」ともどかしげに微笑んで。彼が眠るまで傍にいてあげた。熱のこもった手のひらをそっと握って。コウはすぐに眠りに落ちた。やはりムリをしていたんだね。軽く握っているだけなのに、コウの手はしっとりと汗ばんでいた。抱きしめたかったけれど、暑がって嫌がるんじゃないか、とできなかった。


 そっと手を外し、彼の額に軽くキスしてベッドから下りた。コウの手が無意識に僕を探している。その手のひらに、もう一度キスを落とした。


 しばらくは部屋の机でパソコンを開け、やり残していた作業をしていたのだけど、キーボードを叩く音や、椅子の軋む音、僕の動く気配――、そんなわずかな物音でコウは寝苦しそうに寝返りを打っているような気がして、部屋を移った。


 ショーンの顔を見るのが嫌で、スティーブの書斎へ入った。いつも彼がくつろぐときに座る、お気に入りのアンティークの肘掛け椅子に静かに腰を下ろす。閉じられたままのカーテンに遮られて陽の入らない室内は、ひんやりとして心地良い。皮膚をチリチリと焼くような苛立ちの感触を冷ましてくれる――。


 考えなければ。もっと真剣に。こんな悠長なことでは駄目だ。我慢できない。あの二人を見る度に、積もりに積もった焦燥が、埃が舞いたつように飛散する。その度に僕は汚れて、息苦しくて、コウに触れることが怖くなる。彼は敏感に気がついて、「かまわないよ」って言うから――。ぶつけてかまわないよ、って。僕のすべてを受けとめようと、両手を広げて――。


 コウは、僕に、優しくして欲しいに違いないのに。僕が傍にいるだけで、あんなに安心しきって眠りに落ちているのだから。コウの傍にいてあげたいのに。


 ――そうすることが、怖い。




 そんな堂々巡りの思考に囚われているうちに、マリーが帰ってきた。コウの食べられそうな昼食を買ってきてくれていた。コウは一度目を覚ましたけれど、「朝食を食べすぎたからもう少し後で」と言ってまた眠ってしまった。マリーは、今日は僕がいるのなら安心だ、とまたすぐに出かけてしまった。ショーンが家にいるのが嫌なのかと思ったけれど、そういうわけでもなく、本当に約束があるのだそうだ。「一時休戦よ。コウが可哀想だもの」とマリーは肩をすくめていた。




 僕もそうすべきなのかもしれない。コウが元気になるまでは、一番に彼のことを考えて――。


 逃げていても仕方がない、と覚悟を決めて居間に下り、ソファーでパソコンを開き直す。そこからは集中して作業に取り組んだ。さっさと終わらせて、気持ちよくバカンスを取るのだ。コウと二人ですごすための。



 どれくらいそうしていたのかは判らない。きりのいいところで、ふと顔を上げると、いつの間にか赤毛が窓枠に腰かけていて、じっとこちらを眺めていた。あの感情の読めない人形のような無表情な顔で――。



「精が出るな、白雪姫(シュネービッチェン)

 目が合うなり、いやらしい口許がさっそく毒を吐く。

「その呼び方、いい加減にしてもらえるかな。好きじゃないんだ」

 赤毛はククッ、とさもおかしそうに口の端で嗤った。

「そのものだからか?」


 これだから、こいつは……!


「書類をよこせ。俺だけなんだろ、まだサインをしてないのは? 契約ごとは、さっさと済ませちまわないとな」 


 忘れていた――。僕から説明する、と言ったきりこいつと話す機会がなかったから……。


 苛立たしさを押し殺し、キャビネットの下段にある引き出しを開けて放りこんでいた書類を取り出すと、赤毛に渡した。


「内容は、」

「コウのツレに聴いた」


 ツレ? 誰のことかと眉根をひそめた僕を一瞥し、赤毛は「コウの、金髪のダチ」といい足した。


 ショーンか……。ツレだの、ダチだの不愉快極まりない。そんな深い関係なんかであるものか!


 不機嫌さに固く唇を結んだ僕の前で、赤毛は目を細め、口をひん曲げて嗤いながら、手の甲でコッコッと書類を叩いた。滑らかな白い拳に刻まれた火焔のタトゥーが、紅くゆらゆらと跳ねる。

 

 

「で、お前、この規則(ルール)どういうつもりで作ったんだ? 俺は従う気はないからな」

「じゃ、出ていく? これは僕の一存で決めたものじゃないからね」

「なんだって住人が家事を分担してやらなきゃならないんだ? 人を雇えばいいだろ」

「業者にしょっちゅう家に出入りされるのは、落ち着かない。不愉快なんだよ」

「知ったことか! 俺の持ち回り分は舎弟にやらせる」

「冗談じゃないよ。信用できない他人をこの家に出入りさせるなんて、」

「お前よりもよほど信頼できる奴さ。コウの負担分もそいつにやらせる。雑用に時間と体力を取られすぎて、今のあいつは使い物にならないからな。あいつに家事をやらせてその分の家賃を差っ引いているだろ、元に戻せ。差額は俺が払ってやる。それとも、あいつの家賃全額こっちにツケてくれたっていいんだぜ」


 この、赤毛……!


「舎弟は通わせるから部屋の心配もいらない。掃除と炊事をやらせればいいんだろ?」


 赤毛はもう、勝手にその旨を契約書に書き加えている。そして、サイン――、そんな契約がまかり通ると思うなよ!



「承服しかねるね。これは皆で決めた規則だ。従えないなら、出ていってくれればいい」

 

 暑苦しい外見とは裏腹な、赤毛の透き通る冷ややかな金色の瞳を睨めつけた。負けるわけにはいかない。これ以上、こいつに好き勝手させるわけにはいかない。僕だけじゃない。コウのためにも――。


 




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