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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第一章
24/219

模様 6.

 微熱の続くコウをゆっくり寝かせてあげるために、昨夜は居間で眠った。この数日、赤毛が夜にいることはないので安眠できたよ。そもそも、狭い庭のテント暮らしでかまわないから、という申し出からして馬鹿げている。金はあるのだから、初めから、ホテルでもどこにでも泊まればいいのだ。こうなると、奴がこの家に執着したのも、コウを自分に縛りつけるためだけの提案だったとしか思えない。まったく、冗談じゃない!


 そんなことを夢現で考えながらゴロゴロしていると、ふわり、とコーヒーのこうばしい香りが漂ってきた。

 コウが起きてきたのだ、と思った。だから急いで身を起こしたのに、そこにいたのはショーンだ。僕を起こすつもりで来たのか、両手にカップを持っている。


「おはよう、アル」


 返事の代わりにため息が出た。髪をかき上げ、露骨に顔をしかめてしまった。


「アル、コーヒーを、」

「もらうよ」


 昨夜戻ったときにはコウはもう眠っていたから、着替えもせずに適当に寝入ってしまった。シャツがくしゃくしゃでだらしない。こんな格好、几帳面なコウが見たら嫌がる――。シャワーを浴びて、身なりをマシにしてコウの様子を見にいかなければ。



「コウも、もう起きてるよ。風呂に入ってる。少しマシになったってさ」


 僕の心を見透かしたように、ショーンはつらつらとコウの様子を喋り始めた。昨日は、日中高かった熱も暮れには下がり、夕飯にマリーが買ってきたパンとスープを完食して、体調はかなり回復しているみたいだ、と――。いつもの貧血で休んでいただけのはずなのに、どうもコウの具合がおかしい。


「今朝は顔色も良くなってたよ。昨日、何度も吐いてた時と比べるとさ。まだ万全ってわけにはいかないだろうけど。ドラコもいなかったし、きみが帰ってくるまで、まる一日、マリーと俺とで交代でついてたんだ」


 吐いた? それも何度も? 知っていたら飛んで帰ってきたのに。バニーの部屋になんて寄らずに――。


「そんな状態なら、言ってくれれば良かったのに――」

「コウがさ、きみは繊細な仕事をしてるんだから、こんなことで煩わしちゃ駄目だ、って」

「――すまなかったね。コウが世話をかけてしまって」

「かまわないさ。きみの責任ってわけじゃないだろ? 体力がないのは知ってたけど、あいつやっぱり身体が弱いんだな。たかが夏風邪でこんなに長引くんだもんな」


 夏風邪――? 

 僕が躰に絵なんか描いて浮かれている間に、コウはそんな辛い想いをしながら寝込んでいたって? いつから? 眩暈がするって休んでいたのも、赤毛が料理なんかしていたのもそのせいなのか。知らなかったのは僕だけで――。


 鉛を呑みこんだように、胃が重い。


「それでさ、アル、あの話、コウにしてくれたかい?」

「まだ。コウの体調がこんなだし、込み入った話はできてないんだ」

「――ああ、そりゃそうだよな。ずっと熱でぼーとしてたもんな、あいつ」

「今日話すよ。今から話してくる」


 無自覚なまま、立ち上がっていた。


「あ、じゃあさ、話が済んだら下りてきてくれ。朝食を作っておくからさ」

「マリーは?」

「テニスじゃないのか? 朝早くに出たみたいだけど」

「そう」


 コウがそんな状態なのなら、マリーだって教えてくれればいいのに――。




 もどかしさと腹立たしさで、苛立っていた。こいつの顔なんて見ていたくない。そのまま階段を上がって部屋に入った。コウはまだだ。浴室に行こうか、と腰が浮いた。でも、その前に頭を冷やさなければ……。僕が自分のことだけに囚われていたせいで、コウの体調の悪化に拍車をかけていたに違いないのだから。これだから、あんなショーンなんかにしてやられる――。


 身体を放りだした。コウのいないベッドに――。





「あ、おはよう、アル!」


 戻ってきたコウが僕を呼んだのに、自己嫌悪から返事をしなかった。


「アル? また寝ちゃったの?」


 俯せた背中にそっと手が触れる。頬がすりよせられ、肩口にキスが落ちる。寝返って、ずっと罠を張って潜んでいた獣のように、コウを捕まえた。


「コウ、熱は? ひどいの?」

「もう平気。かなりマシになったよ」


 コウは、にっこりと笑っている。それから軽いキスをくれた。声が掠れていて、いつも以上に色っぽい。


「でもしばらくは、ちゃんとしたキスは駄目だよ。風邪が移るといけないから」

「移した方が早くよくなるっていうよ」

「駄目だよ、」


 我がままを言う唇をすぐさま塞いだ。熱い舌を絡めとった。しっとりとした頬が熱をもっているのは、風呂上りだからか、風邪のせいなのか判らない。でも、――本当に夏風邪なの? 確かめることが怖い。


「アル、お腹空いてない? 何か作るよ」

 息を継ぎ、クスクス笑いだしながら、コウは僕の背中をポンポンと叩く。

「朝食はショーンが作ってくれてる。きみは、食べられそう?」

「うん。お腹、空いてるんだ」


 まだ半乾きのコウの黒髪を梳きあげた。水の中の琥珀を見ているような綺麗な潤んだ瞳。子どもみたいな林檎色の頬。まだ熱があるんだ。罪悪感で、僕の方こそ胃がキリキリする。




「八月には休暇が取れそうなんだ。どこか旅行にでも行こうか」


 赤毛となんて行かせない――。コウの体調が思わしくないのなら、僕が世話をしてあげる。


「本当? どこがいいかな?」


 コウは無邪気に笑っている。


「パリなんかは? 高速鉄道(ユーロスター)ですぐだよ」

「うーん、海外よりも英国内がいいな。フランス語はできないし……」


 ほらみろ、ショーン。何が赤毛とフランス行きを計画している、だ! ずいぶん話が違うじゃないか。


「起きて、アルビー。朝食を食べながらその話を詰めようよ。お休みは何日くらいもらえそう?」


 先に半身を起こしたコウの動作は緩慢だけど、ショーンの話ほど重症にもみえない。彼の言う通り、回復しているのだろうか――。


 僕の前ではいつも笑っているコウ。辛いなんて、絶対に言わない。ショーンには? 彼には甘えたの? 



 ――この部屋に、きみを閉じ込めてしまいたい。

 





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