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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第一章
22/219

模様 4.

 エディの店でシャワーを浴びた。撮影が済むと速攻で帰った。エディは僕を引き留めようと、ぐずぐずと何か言っていたけれど、耳になんて入らなかった。コウの具合が気にかかりすぎて――。




 今朝、いつも通りに起きると、傍らにいるはずのコウがいなかった。シャワーを浴びていない自分の臭いが気になってはいたけれど、生気のないコウが心配で一緒に寝ていたのに――。

 慌ててキッチンに下りてみると、テーブルの上におにぎりと卵焼き、焼いた魚が置いてあった。そしていつものランチボックスと水筒。小鍋の中にはまだ充分に温かいみそ汁も。でも、肝心のコウがいない。


 コウは、灯りを消したままの居間のソファーで眠っていた。僕の食事を作るためだけに起きて――。僕はそんなことをして欲しいわけではないのに。躰が辛いときには、辛いと言って欲しいんだ。こんな無理なんてして欲しくない。今のコウの状態を、そのまま教えて欲しいのに。僕は僕のためのきみの犠牲なんていらない。

 けれどコウには伝わらない。いつも「平気だよ」の一言で片づけられてしまう。その一言がどれほど僕を不安にさせるか、コウには判らないんだ。




 家に戻る前に、最寄りのカフェテリアで持ち帰り(テイクアウェイ)を頼んだ。きっとコウは、食事もろくに取っていない。そんな気がして。


 居間に灯りがついている。起きていて、大丈夫なの?


 玄関を開けると、笑い声が漏れ聞こえた。赤毛――。やつの甲高い声だ。




「あ、おかえり、アルビー」

 いつも通りの、元気なコウの声にほっとしたのも束の間、傍らの赤毛が睨みを利かせて立ちあがる。また何か嫌味でもぶつけてくるつもりかと身構えたのに、意外にも赤毛は僕を睨めつけたまま、唇の端を吊りあげて、にっと笑った。


()()()なったじゃないか――。コウ、出かけてくるからな!」


 また意味の判らないことを言い残して、赤毛は僕の脇を通り過ぎていく。コウが背後で、ほっと安堵の息をつくのが聞こえた。


「夕食は済ませた?」

 僕が訊くはずだった質問が、コウの口から出ている。

「ドラコがシチューを作ってくれてる。食べる?」

「買ってきた」

 鞄から紙袋を出してみせる。

「彼はああ見えても料理上手なんだよ。すごく美味しいんだ。食べてみて。それは明日の朝食に回せばいいじゃないか」

 人の気も知らないで、コウはいそいそとキッチンへ向かう。べつに、赤毛の作ったものなんて食べたくない、というわけではないけれど――。 



 ここで意地を張るのも大人げない。黙ってコウの出してくれたものを食べた。

「僕に料理を教えてくれたのは彼なんだよ。英国(こっち)に来るまで、僕は自分の面倒すらみられないほど、何もできなかったんだ」


 珍しくコウが自分のことを話してくれる。相槌をうちながら、黙々とスプーンを口に運んだ。コウが元気になってくれたのならそれでいい。奴がコウをロンドン中連れ回したせいで、彼の体調を崩してしまったことを反省し、こうして世話を焼いたのなら、それで――。


 全部胃の中に収めはしたけれど、コウの美味しいというシチューの味なんて、てんで記憶に残らなかった。



「コウ、もう眩暈は収まったの?」

 腕を伸ばして、彼の上気した桃色の頬に触れた。思った通り、少し熱っぽい。

「うん、もう平気」

 いつものように、コウは答える。

「それより、アルの背中の絵を見せてよ!」


 お預けを食っていた仔犬のように、琥珀色が輝く。


「ショーンに、マリーは?」

「二人ともまだだよ」


 そうはいってもここで脱ぐのも気が引けて、「部屋に行こうか」と誘った。自分から言いだしたくせに、顔を赤らめるコウが可愛い。


「アル、なんだかいい匂いがしてるね。絵の具の匂いかな? 抹茶や果物みたいな香りがしてるよ」

 僕の腕をとって、コウは嬉しそうに息を吸いこんでいる。


 これだからコウは――。


「天然塗料だからね。ユーカリや、柑橘系のオイルと混ぜて使うんだ」




 自室に戻って灯りの下で、シャツをパサリと脱ぎすてた。くるりと背中を向けてみせる。コウが、息を呑んでいる。そんなにいい出来かな――。誇らしい想いで振り返ると、肝心の彼は血の気を失ったように蒼褪めていた。


「トリスケル――」


 はっきりと、コウはそう呟いた。


「何? もう一度、」

「この模様――。3つの渦巻きの合わさったケルト文様だ。トリスケルっていうんだよ。びっくりした。きみがこんな象形モチーフを選ぶなんて、思ってもみなくて……」

「変かな?」

「似合ってるよ。神聖な気分になる」

 言いながらコウはふわふわとした足取りで歩みよると、僕の背中に頬をあわせる。


「すごいな――。脈打ってるよ。生命が――」


 コウの読んでいた本の表紙にこの模様があったんだ。だからこれに決めた。


 きみの気を惹きたくて――。


「全身に入っているんだ。見る?」

 胸元に回された手に僕の手を重ねた。背後で頷いたコウは、ゆっくりと腕を解いていく。


 スラックスも下着も脱ぎすてた素肌に、コウの視線が心地よい。


「描いた人は、きみの裸を見てるんだね」

 拗ねた声音。

「見てないよ」

「見ないと描けないよ!」

 焼きもちを焼いてるんだね。

「目を瞑って描いてたよ」

「アルの嘘つき!」


 コウのぷっと膨れた頬がほころんで、クスクス笑いだす。ベッドに腰かけた僕のとなりに座り、肩にもたれてくる。不思議に幸せそうに目を瞑って。でも――。どこか儚げな彼の存在の薄さに、僕はなぜだかぞっとしていた。なんだか覚えがあるのに、この感じ――。もっと以前。駄目だ、思いだせない。



「この模様にも民俗学的な意味があるの?」

「もちろん!」


 何でもいい。どこか遠くにいるような彼の意識を引き戻そうと、話題を振った。ふわりと瞼を持ちあげ、僕を見つめるコウの瞳が嬉しそうに輝いた。


「太陽のエネルギーの象徴だよ。大地に刻まれる――」

「そうなの? 僕はてっきり水流だと思っていた」


 見本のスケッチは青だったし、エディも青に発色するジャグアを勧めていたから――。


「いろんな意味を含んでるんだよ。成長、進化、復活――、海や大河と縁深い古代ギリシャやバビロニアなどの国々では、渦潮のイメージが強いかもしれない。原初に渦巻く大洋から神々が生まれ、国が生まれるんだ」


 コウは僕の腕をとり、そこに描かれた渦を指で辿る。


「でも、ケルトでは海流の渦巻きよりも、太陽の死と再生のエネルギーを意味しているんだ。冬至の日に魂の復活を導くための――」


 熱に浮かされたように喋っている。


「綺麗だよ、アルビー。きみそのものだよ」



 白い肌に焼きつけたような、この模様が――? 焦げついた色調。原始的な幾何学模様の組み合わせ。こんなデザインなんて、いつもの僕なら選ばない。



 コウの解釈する僕は、いったい、どんな輪郭をもっているのだろう――。






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