風 3.
「綺麗な夕暮れだね」
コウは、僕に同調して言ってくれてるのだろうか。目を細めて微笑んでいる。僕はこの情景に見とれて、立ちつくしてしまっていたわけではないのに。
空が燃えている――、と、不吉な前哨なのではないかと感じていたのは、僕だけなのだろうか。ゆるりと辺りを見回した。
バニーは、すでにマリーたちとどんつきのテーブルについて、僕たちを観察していた。ひと目で判る。対象を分解するような彼の視線は独特で、最初の内は不快で不安を掻きたてられたものだった。だがやがて、それが安心に変わるのだ。慣れないうちは、彼のそんな内面の働きに傍から気づくことさえないだろう。その証拠にショーンはバニーを意識していながら、彼の興味がマリーにないことにあからさまに安堵しているだけだ。切れ切れに聴こえる会話は取りたてて意味もない。
コウは押し黙り、僕の意識がここへ戻ってくるのを、じっと待ってくれている。僕にあわせて。
「コウ」
彼の髪をさらりと撫でた。
「夕陽はきみの精神的外傷じゃないの? そのせいで、僕は少し不安になってしまうみたいだよ」
「僕の? べつに平気だよ。トラウマって、そんなことはないと思うけど……」
夕陽に照らされた黄金色の蜜に溶けるような横顔が、綺麗な輪郭そのままの黒々とした影を床に伸ばしている。僕はその影を踏みにじりたくなる。これもコウの一部なのに。
「取り返したいと思わないの――」
コウ自身が奪われたと言った自分の半身、赤毛と交換した自身の魂を。
コウに尋ねたわけではない。つい、口をついてでていたのだ。こんな場所で言うべきことじゃない、とすぐに後悔した。「ごめん」と続けて謝った。コウは少し困ったような、申し訳なさそうな笑みを浮かべている。
「彼が僕のなかにあるから、僕はきみとこうしていられるんだな、って解ったんだ。僕だけじゃ、きっときみに呑みこまれてしまう。だから、まぁ、今の僕もいいかなって思うようになったんだよ。だからかな、夕陽が好きだよ。太陽の焔が大地と交わる時間だ。ほら、見て」
コウはゆっくりと、茂る木立ちに重なっていく燃える太陽を指差した。
「夕陽を見ているとき、きみが僕を抱えてくれてるんだ、って実感する」
コウの認識する僕は、地の精霊なのだろうか。どうしてそうなるのかまるで理解できない。コウの内的世界を知ってからというもの、僕はますます混乱して戸惑い、彼は逆に腹をくくったかのようにあっけらかんとしている。彼を侵襲する赤毛の存在が、今度は僕とコウ自身を繋ぐ移行対象に変化しているなんて。彼の思考は、彼にしか解き明かせない規則に基づいて働いている。それはきっと、赤毛と共通する世界の規則で、僕には受容できないもので――。
「ちょっと、アル! いつまで二人で話しこんでるの! 私との約束、忘れたの!」
しびれを切らしたマリーが、席をたって割り込んできた。
「もちろん、覚えてるよ」と、作り笑いで彼女を宥め、コウに目配せする。コウは苦笑いして頷き、彼女と入れ替わりでテーブルへと向かう。
「やっぱり、彼なの?」
バニーにちらりと視線を流し、声を落として尋ねた。マリーは答える代わりに青い瞳を輝かせる。
「残念、彼は――」
「まさか、アル、また!」
一瞬にして彼女の顔が憤怒に燃える。彼はゲイだよ、と言うのが一番無難な断り文句だ。だがそうすると、僕との付き合いが疑われる。その嫉妬がらみの猜疑心を、マリーはそのままコウにぶつけかねない。それだけは避けたい。
「彼は――、コウの相談相手として、これから彼のリハビリを担当してもらえないか、と頼んでるんだ。僕のいない間、彼との間に私的にややこしい問題を持ち込まないでほしいんだ」
下手な嘘をついたところでマリーには通用しない。正直な気持ちを話した。憤慨するかと思いきや、マリーは逆に嬉しそうに目を大きく見開く。
「じゃ、これから家に来てくれたりするの! それに、アルが戻ってからなら助けてくれるってことね! ありがとう、アル!」
マリー……。
何でも都合良く考えられるきみは、バニーよりもショーンがお似合いだと思うんだが。
どうも今の彼女の意識はバニーに釘付けらしい。ため息を呑み、軽く肩をすくめた。マリーはさっそく僕の腕に腕を巻きつけて、皆のいるテーブルへと引っ張っていく。この強引さがあれば、恋の助っ人なんて必要ないだろ。どうぞご自由に、自分で当たって砕けてくれ。
自分のことが思わぬ面で取りざたされている、などと知る由もないバニーは黄昏ていく空を眺めている。そして、コウも。ショーンはそんな二人を気にしながらもごもごと喋り、忙しく口を動かしている。主に食べる方に。
いったいいつの間にこんな料理が湧いてでたんだ? まさか北風がテーブルクロスをくれでもしたのか――。
「アル、はやく座れよ! これ、旨いぞ!」
「立食だからって、メインテーブルから大皿ごと引っさらってきたの?」
呆れはてて、さすがに嫌味のひとつも言いたくなったよ。
「まさか! いくら俺でもそんな真似をするわけないだろ。あの双子たちが持ってきてくれたんだよ」
解ったから、フォークを振り回すな。
と、心の中だけで呟き、もう一度まじまじとテーブルを眺めた。どこかで見たことのあるような金色の蔦で縁取りされた白磁の皿に、ハムやパテ、サーモンの前菜の盛り合わせやサラダが十分過ぎるほど並んでいる。それに肉と魚それぞれのメインの皿にしろ、ガーリックトーストの籠にしろ、僕たちのために一揃え用意されたとしか見えない。だがそれよりも気持ち悪いのは、マリーと僕がテーブルから目を逸らしていた時間なんて、ほんのわずかでしかなかったはずなのだ。あのでっぷりとした緑のフロックコートに気づかないはずがないのに――。
「きゃ!」と、マリーが小さく悲鳴をあげて顔にかかる髪を押さえた。僕が席に着くのとほとんど同時に、突風が駆け抜けたのだ。テーブルに置かれていたグラスのなかの蝋燭が大きく膨らみ揺らいで、空いた席のテーブルクロスが、バタバタと耳障りな音を立ててはためく。
風が収まり、ほっと息を継いで「大丈夫?」とコウの顔にかかる髪を直し、仮面の羽飾りを整えてあげた。彼は「うん」と微笑んで――、「ところで」と、ついと姿勢を正して唐突に切り出した。
「アル、マリー、ショーン、お願いがあるんだけど」
妙に改まった口調で、僕たちの顔を順繰りに見渡して。




