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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第五章
212/219

風 2.

 わけの判らない場所で、わけの判らないものを口にしてはならない。何が起こるか判らないのだから――。


 透明な黄金色(ゴールド)にふつふつと小さな気泡の弾けるフルートグラスを、「乾杯!」と高く掲げたとき、同時に胸を過っていたのはこんな戒めだった。


 ここが本当に現実なのか、判らなくなってくる。緑のフロックコートがあちらこちらでくるくると、まるで踊っているかのように人混みをぬい、飲み物のサービスをしているのだ。それに手を伸ばすのは、中世風の派手やかな色づかいのコートを着た野獣だったり、黒タイツの骸骨だったり。外にいたときは、もっと奇抜で多彩な仮装をしたはじけた連中が多かった。それなのに今この広間を埋めるのは、僕でも知っている御伽噺を彷彿とさせる時代がかった連中ばかりだ。もちろん、こんなものはただの仮装で、彼らのほとんどは研究所の学生にすぎないと解っている。――けれど、この場に()()がいるのもまぎれもない事実なのだ。それも大量に。それだけで、意識と無意識をひっくり返されそうな不安が広がる。深層に沁みついてしまった悪夢が再燃する予感に息が詰まる。


 そんな理不尽さに心を攫われ、皮膚がひりひりするようだった。父のことで僕をいたわって下さっている教授の思いやり深い言葉も、頭上を通りすぎていくばかりで。教授の前ではバニーのくれた仮面はとっていたにもかかわらず、僕はもう一枚自前の仮面を顔に貼りつかせるより仕方なかった。心のない言葉でソツなく飾り、にこやかに応えるために。そう、これまでとなんら変わりなく。そんな僕が教授の面前でポカをやらかす前に、バニーが助け船をだしてくれた。ごく自然に切り上げて、僕たちはこの場を辞すことができた。



「呆れてるんだろ」

 視野の狭まった仮面越しに、バニーを見やる。

「いや、新鮮なきみの反応が見れて面白いよ」

「僕がたかだか魔術師ごときに翻弄されているから? それとも、奴が僕の受け入れられない(シャドウ)だから、」

(シャドウ)――。そうかな。僕は、赤毛の彼は、きみの生を生き生きと展開してくれるトリックスターじゃないかと思ってるんだけどね」

「トリックスター? まさか! 冗談じゃない」


 金輪際関わり合いたくない相手なのに。


「そもそも奴にはそんな複雑な二面性なんてないよ! 単純で粗暴で自分勝手! 害にしかならない」


 仮面をつけていても、僕の不貞腐れた顔がバニーには想像つくのだろう。彼は目を細めて、さもおかしそうに笑っている。



「アル!」


 頭上から切羽詰まった声が降ってきた。弾かれたようにふり仰ぐ。吹き抜けの大広間を見おろす二階手摺りから、コウが身を乗りだして僕を呼んでいた。

 何かあったのかと背筋に緊張が走る。だがコウは、ほっとしたように口許を緩めて僕に手を振っているだけだ。軽く手を振り返し、そこへ行くと手振りで示した。ふと隣にいるバニーを見やると、彼は微動だせずにじっとコウを見つめていた。僕の視線に気づいた彼が、ふっと微笑む。


「きみの恋人はかわいいな。素直で判りやすい。きみを溺れさせるほどの深淵さを僕にも見せてもらえるだろうか。楽しみだよ」

「その深淵の危険性をきみに見極めてほしいんだ」

「本当に自我インフレーションに陥っているかどうかだね。精霊である赤毛の彼と同一化して妄想的な錯覚の世界を生きている、か。けれど同時にこの現実世界で普通の人間として生きる自分に、彼は違和感はないようだね。きみに恋して、僕に嫉妬している。ごく普通の子に見えるよ」


 嫉妬――、コウがバニーに? 

 彼のそんな感情は、いつも外界へは向かわず彼自身の至らなさとして自責に転じていたのに。




 二階フロアに着くと、コウが駆け寄ってきて僕の手を取った。痛いほど、握りしめる。不安、というよりも怒りなのだろうか、僕に対する。それともバニーに対して?


 エリックやニーノに逢った時とは明らかに違う彼の反応は、僕を高揚させた。コウはバニーを怖れ、怯えているのではない。彼に僕を奪われまいと全身で牽制しているのだ。――かわいい。けれど、バニーをライバルとして警戒されるのは困る。僕の目的の障害になりかねない。僕とバニーは、きみの想像するような関係ではないと、ちゃんと解ってもらわなければ。


「コウ、お待たせ」と彼の肩を引き寄せ、髪にキスを、しようとしたら仮面に邪魔された。もう少し人けのない場所に行かないことには、この仮面を外すこともできない。こんなところで知り合いに絡まれるともみくちゃにされかねない。ここまで来る間にも、バニーは幾度となく僕のことを訊かれ、適当にあしらってくれていたのだから。

 はぁ、と息をついた音を聞きつけたように、ショーンが僕の背中をたたく。


「もう義理は果たしたんだろ? 適当に料理を取ってバルコニーに出ないか? あそこならまだまだ空いてるぞ」


 ありがたい。仕切りたがりのショーンは、こういう場で実に目端が利く。僕には欠けている能力だ。「そうよ。ここじゃ落ち着かないわ」と、マリーが僕の反対の腕に自分の腕を絡める。彼女のこと、すっぽり頭から抜け落ちていた。




 引っ張られるままに、中庭に面したバルコニーへ出た。テーブル席が設けられ、白いテーブルクロスが黄金の夕映えに染まっていた。人影はまばらで、外気はすでに心地良く冷たい。だがそんなことよりも、目に飛びこんできた景色が僕の不安をかきたてた。

 中庭を挟んだ煉瓦塀の向こうで、深緑の揺らめく樹々の(きわ)が、燃え落ちようとしている太陽に火を放たれたように赤く焼かれていたのだ。





【精神分析用語 (ユング)】(Wikipediaより)


・トリックスター

 神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。



・自我インフレーション

 集合的無意識の作用点である元型は、膨大な心的エネルギーを備えることがあり、元型の作用があまりに強く、自我が十分に自分自身を意識して確立していない場合、自我は、元型の作用像を自分自身の像と混同し、元型の像に同一化することがある。

 例えば、英雄の元型に自我が同一化するとき、自我が自分をどのような役割と考えているかによって、自分自身の認知像の形にヴァリエーションがあるが、いずれにしても、自分が非常に大きな力・権力を持ち、偉大な存在であると錯覚する事態が生じる。これを自我インフレーションと言うが、集合的無意識は、ある場合には、無限のエネルギーを持っているように見えることがあり、その結果、自我のインフレーションは極端化し、自分こそは、世界を変革する英雄であり、偉大な指導者であるなどの妄想的な錯覚が生じることがある。

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