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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第五章
211/219

 視線に気づいたのか、コウの瞳が僕を捉えてにっこりと微笑んだ。足早に彼のところまで戻ると、両手で彼の頬を包んで上向かせた。


「コウ、何を見ていたの?」

 いきなりの僕のそんな行為に、彼は驚いたように目を瞠る。

「――風だよ」

 ひと呼吸おいて、コウはなんでもないことのように笑って言った。

「風を見ていたんだ」


 コウの見ていた辺りに、もう一度視線を巡らせる。アーチの連なる回廊の向こう側だ。僕たちがついさっきまでいた中庭を囲む樹々の枝葉が大きく揺れている。こちら側では、そんな激しい風のざわめきなんてまるで感じられないのに。その様が、記憶のなかの何かを呼び覚ます。前にも同じように訝しんで樹々を眺めたことがあったような――。



「アル、そろそろ行きましょ」


 受付で並んでいる列も減ってきている。そわそわと落ち着かない様子のマリーが僕の腕をとった。


「ああ、そうだね。ショーン、」と僕は彼を呼び、彼女の腕を解いて託す。そして、手に持ったままだった仮面を被った。風の揺さぶる葉擦れの音が、ざわざわと警告してくれているような気がしたのだ。



 いくらショーンやバニーがいるとはいえ、この雑多な会場にコウを残していくなんて――。やはり連れて来なければよかった。偶然を装ってバニーを紹介するつもりだったから、この場を選んだのだ。けれどこの選択はあまりにも浅はかだった。何週間もロンドンを離れて、僕自身、現実の煩わしさを忘れていたのだ。


 赤毛をバニーに引き合わせるというもう一つの目的も、もうどうでもいいように感じられた。早くこの場から離れたい。


「コウ、」と傍らの彼を覗きこむ。コウは当たり前に僕の手に指を絡ませた。「楽しみだね」と笑みを結んで。

 こんなに無邪気に言われると、やっぱり帰ろう、なんて言えない。

 コウを喜ばせることができるなら、僕の感じる煩わしさなんてどうだってよくなってしまう。


 くるくると変わる感情に振り回されて、この時点で僕はもう疲れを感じていた。バニーに口の端で呆れたように笑われている気がする。ああ、マリーがしきりに僕に目配せしてくる。面倒くさい。



 何も言いだせないまま受付を済ませ、会場になる建物へ足を踏みいれた。立食形式なのでテーブルは除かれていて、大広間は広々とした空間が取られていた。舞踏会場として建造されただけあって、磨かれた寄木造りの床に白い漆喰壁、高い天井、列なるアーチ型のステンドグラスの窓と、どこを向いても風格のある豪奢な設えだ。コウがやたらとため息を漏らして感嘆している。彼はアンティークが好きなのだ。やはり連れてきてよかった、と思い直した。

 教授に挨拶を済ませたら、体調が良くないとでも言って抜けさせてもらい、コウの傍にいよう。バニーはそのためにこの仮面をくれたのだ。フロアにはもう充分に人が集まっていたけれど、バニーは声をかけられても、僕が注目されることはなかった。これを被っていれば、無駄な相手に無意味な時間を取られなくてすむ。これならここでの僕の立場を忘れて、コウと一緒に楽しむことだってできるかもしれない。



 目敏く僕たちの教授を見つけたバニーに肩を叩かれた。細身で長身のウィルソン教授は仮装はしていない。ごく普通のタキシード姿だ。今年はどこで休暇を過ごされたのか、しっかり日焼けしている。彼の好きなイタリアかギリシャあたりにでも行かれたのかな。

 教授は、彼のテコ入れで決まった留学話が僕の個人的な事情で暗礁に乗り上げることになったにもかかわらず、僕を責めることなく逆に励まして下さった。そして、留学を中止ではなく保留という形にできるように口添えして、僕にチャンスを残して下さった。僕にとって恩義ある大切な方だ。疎かにはできない。



「コウ、教授にご挨拶してくる」

 まずコウに断り、ショーンとマリーに頷きかけた。緊張気味のコウとマリーの横でショーンだけは、「また後でな」と軽く手を振る。


 バニーと連れ立って、いまだ明るい陽差しの入る窓辺の一群へと足を向けた。

 前方に組まれた仮設ステージで、司会がマイクチェックを始めた。じきに開会だ。ボーイがシャンパングラスを配りはじめる。――緑のフロックコートの。いったい何人いるんだ。


「なるほどね」とバニーが呟いた。

「きみのその仮装、マントを脱いでしまえば彼らに紛れてしまえる。きみへの配慮なんだね、ラザーフェルドの」

「エリック? どうして彼が?」

「今日は彼の系列のイベント会社が仕切っているって聴いてるよ」

「僕は聴いてない」

「話さなかったかな?」

「たぶん――」


 いや、どうだろう。自信がない。頭の中が忙しすぎて記憶が飛んでいる。



「アルバートさま! シャンパンをどうぞ!」


 ガマガエルのような口を大きく横に引いた見知った顔が、僕に笑いかけていた。






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