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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第五章
202/219

鎖 8.

 判で押したように規則的だったアーノルドの日常を、僕が引継ぎ踏襲する。そんな毎日を一週間ばかり送り、僕はいったんロンドンへと戻ってきた。

 その主な理由は、明日催される研究所の送別会への出席のためだ。それから、生活拠点を向こうに移すために必要なものを持ち帰るため。けれど最も重要なのは、こうしてバニーに逢うことだった。勤務時間を終えてからだから、そう充分な時間があるわけでもない。外でのんびり食事しながらできる話でもないだろう、と彼は自宅で手際よくパスタを作ってもてなしてくれた。



 清涼な香りのする無垢材の床。白樺の森を思わせる壁。すっかり馴染んだ居心地の良い空間は、ここにいられるという事実だけで、僕の緊張を解してくれる。食事の後は硬目のソファーで寛いで。口に含んだ香ばしいコーヒーが、ゆっくりと喉を落ちて染みていく。

 僕はここで、彼との間にあったはずの空白の時間も、空間も、何もかも忘れて昨日の続きのことのように、あの館で僕の身に起こった一部始終を話していた。

 長い物語を語っている間、彼は相槌を打つくらいでほとんど口を挟まなかった。そして話し終えた今も、肘掛け椅子で頬杖をついたまま口を開こうとしない。けれどこの沈黙は僕を追い詰め糾弾するものではない。彼の沈黙は、ただただ思索に耽っているからだということを、僕は経験上知っている。




「アル、きみは自覚できていないようだけどね、精神面の配慮(ケア)が必要なのは、きみも同じなんじゃないのかな」


 ようやく頬杖を外して膝上におろし、拳に替えると、バニーは僕を真っ直ぐに見つめて穏やかな口調でそう言った。


「妄想を語ってるって? 精神状態を疑われるほど荒唐無稽だったかな。きみに信じてもらえないようでは、僕はお手上げだな」

「もちろん信じてるよ。そうじゃなくて、これほどの内的経験を得たのなら、きみが、相当傷を負っているんじゃないのか、ってことを心配して言ってるんだ」


 バニーの眉がわずかにひそめられ、銀灰色の瞳が細まる。軽く首を傾げて僕を見つめる。冗談で言っているのではない。僕を真剣に受けとめての言葉だ。


「傷ついている――、自覚はないな。ないと思う」

「アル」

「たぶん」


 何に傷つけられるというのだ? 思うままにならない現実に? 僕はそこまでの万能感は初めから持ち合わせてはいないつもりだ。自分の限界を見誤ったりはしない。僕の不安は、僕ではどうしようもできないコウに根ざしたもの。だからここにいる。バニーにコウを託し、僕だけでは成し得ない最良の結果を得るために。


 妄想世界に囚われているのはコウであって、僕ではない。


「きみは本当にこんな話が信じられるの? 分析心理学に理解があるなんて思わなかったよ」


 彼のいたわるような視線に耐えられずに、僕の方から皮肉ってこんなことを口走る。


「それは残念だな。きみは知ってくれてると思ってたよ」などと、バニーはくすくす笑って返す。「とても興味深い素材だと受け取ってるよ。僕の手で扱えないのが残念なほどにね」

「コウを引き受けるのはやめる?」

「きみの話をしてるんだよ。彼に関しては約束通りにするつもりだ。僕は一向にかまわないよ」

「ありがとう、バニー。それを聴けてほっとした」


 口許に笑みを保ったまま、バニーは一瞬瞳に淋しそうな色をのせ、視線を伏せた。だが、またすぐに瞼を持ちあげて、僕に穏やかな眼差しをくれる。


「――きみは、頑固だものな。そうやって何でも無尽蔵に呑みこめると思っている。その痛々しさが、他者の欲望をかきたてるなんて思いもしないで」


 軽く頭を振って笑っている彼から、今度は僕の方が目を逸らした。ここで彼の挑発に乗るわけにはいかない。彼は、僕の覚悟のほどを試しているのに過ぎないのだ。


「きみの大切な恋人のことは、そうだね、明日、様子をみてからもう一度話そう。それくらいの時間は取れるだろ?」

「何もなければね」

「おやおや、そんなに赤毛の彼のことを警戒しているの?」

「当たり前じゃないか。今こうしている時だって、殺意すら感じてるよ」

「それはきみの恋人に対してってこと?」

「まさか、そんな訳ないだろ」


 そんな訳が。そうか――。


「敵わないな」


 そういうことか、とバニーの言わんとすることを理解して、意識しないままに自嘲的な笑みが零れていた。


 コウの内的世界での赤毛は、おそらく「(シャドウ)」を意味する元型なのだ。コウ自身は認めようとしない攻撃性の象徴といっていいのかもしれない。

 そしてそれは、同時に僕がコウのうえに投影した「(シャドウ)」でもあるのだろう。だから僕は、こうまで奴が憎くて堪らない。それが僕自身で抱え損ねた否定的な自我だから。そしてこの憎しみは、自分自身で攻撃性を抱えられず、赤毛という「(シャドウ)」を抱くコウへの憎しみでもあるのだ。



 バニーは僕のコウへの憎しみの逆転移を心配して、この症例のスーパーヴィジョンを受けろと提案してくれているのだ。コウをバニーに託すにしろ、僕も僕自身の理解を深め、冷静に見直しておかなければならないということだ。


「解ったよ、バニー。スーパーヴィジョンを受ける。誰に頼めばいい? 紹介してくれるかい。でも、こっちに戻れるのはいつになるか判らないし、留学も今のところ保留になっているだけで、中止って決まったわけじゃないんだ。状況的には難しいって面も頭に入れておいて」

「了解。個人開業の知人に当たってみるよ。詳しいことは、また明日にでも」


 ふっと、バニーの緊張が和らいだ。ふわりと優しげに目許が緩んでいる。ちらりと壁の時計に目をやり、バニーは軽く肩をすくめる。


「泊まっていくかい? そこのソファーでかまわないなら」

「帰るよ。コウがきっとまだ寝ないで僕を待っている」

「そう。羨ましい話だな」


 僕はいったい何時間ここで喋り散らしていたのだろう。とっくに時刻は午前になっていたのだ。


「とんでもない時間になったな。きみの恋人は可哀想に。こんな時間まで小鳥のように震えながら親鳥の帰りを待っているなんて」

「親鳥? コウは僕の――」


 その瞬間けばだった心のままバニーに視線を向け、すでに立ちあがって僕を見おろしていた彼を見あげた。なぜだろう。彼の瞳が、僕に唐突な理解をもたらしたのだ。だからだろうか――。僕は最後まで言い切ることができないまま、堰を切ったように泣きだしていた。


「スーパーヴィジョンは――、今、ここで、きみに受けもってほしい。そうしないと、僕は――、コウのもとへ帰れない」




 ぼろぼろと涙の溢れでるまま彼を凝視し、途切れ途切れにそれだけ告げることが、今の僕の、精一杯だなんて――。


 



 

【精神分析用語】(ウィキペディアより)


「分析心理学」……カール・グスタフ・ユングが創始した深層心理学理論で、心理療法理論である。


「元型」……(分析心理学で)深層に、自我のありようとは独立した性格を持つ、いわば「普遍的コンプレックス」とも呼べる作用体。個人の夢や空想のなかで、イメージとして出現する。個人の無意識に存在するこのような原像が、また、民族の神話や、人類の諸神話にも共通して現れる。


「影」……意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ元型。肯定的な影と否定的な影があり、否定的な場合は、自我が受け入れたくないような側面を代表することがある。



「逆転移」……カウンセラーがクライアントに抱く考え、感情、思いのこと。

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