プロローグ 憂鬱の行方
彼、アルビー・アイスバーグは目覚めてからもうたっぷり三十分間は、大きく柔らかな羽枕に顔を埋めたまま穏やかな寝息を立てている恋人の寝顔を、しまりのない顔で眺めている。
僕の恋人は、丹精込めて創られたアンティークの人形のように愛らしい。どこか懐古趣味的な懐かしさを醸しだす、永遠の無邪気さを感じさせる子だ――。
と、尽きる事のない称賛の美事麗句を、つらつらと繰り返し頭の中で再生させているのだ。
彼の恋人は、いつも彼を見つけた瞬間にその頬を薔薇色に染め、野の花のように可憐な微笑みを彼に向ける。教会の壁を飾る宗教画の天使のようなあどけない容貌をしているくせに、琥珀色の瞳はいつだって慈愛に満ちた聖母のように彼を見つめる。そのくせ滑らかで柔らかな陶器のような肌は、神経質な子猫のように敏感で、優しく撫でてやると喉を鳴らして喜んでその躰を彼に摺り寄せてくるのだ。……ほんの少しの意地悪で、毛を逆立てて怒りもするけれど。それもまた堪らなく可愛くて、彼はつい恋人を虐めたくなったりするのだけれど。
アルビーはそんな彼が愛おしくて仕方がない。
そう、彼だよ。言い間違えてなんていない。彼の恋人は男だ。それも実年齢とはかけ離れて幼く見える男の子だ。
彼はゲイなのかと訊かれれば、躊躇なく「そうだ」と答えるだろう。かと言って女の子は嫌い、という訳でもない。あくまでどちらがより好みかといった指向の問題だ。
けれど彼の恋人は違う。おそらくはゲイではないし、性的指向はヘテロ。いわゆるストレートだろう。それにも関わらず、彼はアルビーを選んだ。彼を愛していると言った。生涯をかけて、彼を愛すると。
アルビーもそんな恋人を愛している。狂おしいほどに。こうして安心しきった寝顔を彼に晒し、安らかな寝息を立てている恋人を見るにつけ、憎しみすら覚えるほどに愛おしいと感じている。彼の存在を得たことが、自分の人生の中で打ち立てた、最高の金字塔だとさえ思っている。
「アル、もう行くの? そんな時間?」
まだ目が覚め切っていないのか、恋人の手がアルビーを探してシーツの上を彷徨っている。そのもどかしく不安げな手をとって、アルビーはキスを落とす。彼の手は男の手だとは思えないほど柔らかい。スポーツをして鍛えたりしてこなかったからだよ、と彼は言う。恥ずかしそうに、それが悪いことででもあるかのように。アルビーはこの柔らかくて小さな子どものような手が、とても好きなのに。
「まだ早いよ。コウは寝ているといい」
アルビーは彼のさらさらとした真っ直ぐな黒髪を梳いて、まぶたにキスを落とす。
「間に合うのなら、朝食を一緒に食べよう。何か作るから」
恋人はまだ眠たそうな声でそんなことを言い、彼の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締める。胸に頬を擦りつけてくる。彼がここに存在していることを、こうやって教えてくれるのだ。毎朝の欠かせない儀式のように。
こんな可愛らしいアルビーの恋人だが、問題がないわけではない。まず、彼は自分の魅力に全く自覚がない。そして、誰にでも優しくにこやかに愛想を振りまく。おまけに自己犠牲的なまでに親切だ。親しくもない他人のために涙を流し、損得を考えず手助けしようとする。アルビーはそんな彼が心配でならない。
そう、今だって――。
「早いな、コウ! 今朝のメシはどっちだ? 英国式、それとも和食?」
「おはよう、コウ、アルビー。いい匂いだ。今日は味噌汁だろ、それに焼き鮭か、いいね!」
「おはよう、ドラコ、ショーン。ちょっと待ってね、もうすぐできるよ。アルビーは、髪の毛をちゃんと拭かないと風邪ひくよ」
はきはきとした明るい声が、朝のキッチンに心地良く響く。だがアルビーは気遣う彼に小さく首を振る。
この二人。どやどやとキッチンにまで入って来た彼らのせいで、彼はおちおちシャワーも浴びていられない。この時間は、恋人と二人、爽やかな朝を堪能するはずだったのに――。
この二人は、恋人同士を邪魔するべく、実にタイミングよく現れるのだ。まったく、意図しているとしか思えない。アルビーの口許が苦々しさに歪んでいるのは、決してコウの淹れてくれた緑茶のせいではない。そもそも彼は、この香り高い透き通る苦みのあるお茶に、たっぷりと砂糖を入れる。
「あ、駄目だよ、二人とも! それはお弁当に入れるんだよ。足りないなら僕の分を食べていいからさ、それは手をつけないで」
またコウの目を盗んでつまみ食いをしようとしている。食い意地の張った猿どもが! いつもいつも彼に甘えて、自分では何もしようとしないとんでもない奴らなんだ。この二人は!
と、アルビーの内面は彼らへの悪態でいっぱいだ。恋人への甘い想いなど吹き飛んでしまうほどだ。
特にこの赤毛! 朝っぱらから忌々しい! コウと同郷だからといって、図々しくこの家に居ついてしまった。部屋が見つかるまでの間だけだ、とお人よしの彼を丸め込んで。それに、ショーンも、ショーンだ! コウの友人ならもう少し彼を思いやって、朝食くらい気を利かせてくれればいいのに! コウは僕との時間を何よりも大切にしているのに。これじゃ、ろくに話もできない。
彼らに向けられたアルビーの憎悪は留まることがない。彼の魅力的な深緑の瞳から、点火されたロケット花火のように何発も打ち出されている。
だが彼らはそんなアルビーの視線による攻撃なんて、全く意に介さない鋼でできた神経の持ち主だ。当然のように彼の恋人に朝食の用意をさせ、忙しく立ち働いているコウを気にかけることもなく、自分たちだけで早速食事を始めている。この二人との同居が始まってから繰り返される朝の一コマの腹立たしさに、彼が慣れることはなさそうだ。
「朝っぱらから不機嫌な面して! 血圧低いんだろ、お前。味噌汁飲んどけ」
余計なお世話だ――。
彼はこの能天気な赤毛から、ついっと目線を逸らす。彼の恋人は、この二人の朝食を用意するためにテーブルに着く間もない。この貴重な朝の始まりに、彼の華奢な背中と可愛いお尻しか見られないなんて! と彼は不満げに唇を尖らせ目尻を下げている。
そんな彼の不満を感じ取ってくれたのか、恋人がくるりと振り返った。
「コウ、」
何か手伝おうか? と立ち上がったのに、彼はアルビーの手の中にランチボックスを押しつけた。
「うん、お待たせ、アルビー。ちょうどお弁当ができた。こっちは朝食分だよ。ちゃんと食べてね。味噌汁もポットに詰めておいたから」
と、恋人はもう彼に背を向けている。
いってらっしゃいのキスを忘れている――。
ぼんやりと戸口に佇んでいると、「あ、忘れてた!」と恋人は声を立てた。アルビーはついと身を屈めて唇を突き出す。
「はい、お財布。昨夜ここに置きっ放しだっただろ?」
憮然とする彼の手の中に財布を渡し、恋人は恥ずかしそうに彼の頬に掠るようなキスをくれた。
この連中さえいなければ唇に甘いキスをくれるのに――。目線は時計を気にしている。彼が遅れるのではないかと気にしているのだ。彼の恋人は気真面目過ぎる。
それなら、こんな二人の世話なんて焼かなければいいのに!
アルビーの目下の悩みはこの二人だ。
この夏の間に、必ずこの家から追い出してやる!
彼の一日は、毎回、そう心に強く誓う憂鬱で始まるのだ。