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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第五章
199/219

鎖 5.

 朝、目覚めると、明るい陽差しのなかでコウが僕をのぞきおろしていた。目を開けた僕にキスをくれた。彼の腕を引いて、崩れてきた彼を胸に抱きしめる。


「おはよう、アル」

「おはよう」


 コウの輪郭を確認するように背中をなぞる。うなじを撫であげ、さらさらの黒髪を梳く。もう一度、今度は僕の方からキスを求めた。息をするのを忘れるほどに貪って、ようやく唇を離して、だけど彼の瞳は捉えたままで尋ねた。


「僕たちの意識は、うんと深いところで繋がっている。コウは、僕よりもずっと正確にそれを捉えていられるんだろ?」

「どうしたの、急にそんな――」

「だって」


 コウは答える代わりに僕の唇を啄んだ。


「アルは意外に淋しがりやだよね」

「うん。だから、もっと――」


 コウを抱えて寝返りを打つ。パジャマのボタンを外すのももどかしくて、ぶかぶかの上衣を捲りあげた。


「毎週末、来るよ」

「交通費は僕が持つ」

「平気だよ」


 これもコウの変化のひとつ。だけど今は考えられない。僕たちは今、ぴったりと噛み合っているんだ。奴のことなんて、露ほども考えたくない。


「僕の欲動をきみが表出してくれてるのかな――」

「僕の欲望を、きみが感じてくれてるんだよ」



 もう、僕がコウでも、コウが僕でも、どっちだっていい。



「コウ――」



「アル」



「コウ」



「アル、僕はちゃんとここにいる」

「嘘だ」

「アル。僕を見て。目を開けて僕を見て」


 

 まったりと滴る樹液のような琥珀色が、僕を見おろしている。


「アル、愛してるよ」


 この瞳に征服されたのは僕の方だ。僕は彼の前で僕自身を投げ捨てている。コウが僕の頬を両手で包みこむ。乾いた唇に、朝露のような優しいキスをくれる。




 こんな愛を手に入れた僕は、地獄へ堕ちるんじゃないだろうか――。







「もうじきタクシーが着きますよ」とスミス夫人に言われ、僕たちは正面玄関の車寄せまで出てきた。

 しばしの別れを惜しんでの立ち話で、残りわずかな時間を潰す。書斎での闘いで手に入れたショーンの戦利品のほとんどは郵送するので、大した荷物があるわけでもない。どうしても持ち帰りたい数点だけを、彼は持ってきたリュックに入れてある。本当はかなりの量を持ち帰りたかったらしい。だが、もし途中でコウに何かあったら、身軽に動けるようにと断念したらしい。「電車が境界を越えてまたどこかを彷徨うことになっても、俺はもう慌てないよ」と彼は首をすくめて笑っていた。僕にはまるで笑えないジョークだ。だから彼のリュックの中身は、あえて訊かないでおいた。


 無事にロンドンへ着くことを祈るばかりだな。そう、僕はこの館まで車で来たけれど、コウとショーンはウインダミアから電車でロンドンに帰るのだ。ショーンと相談して、その方がコウの負担が少ないだろう、ということになった。コウはどちらでもいいよ、と言っていた。これもコウの変化。以前ここへ一緒に来たときは、電車の旅に子どものようにはしゃいでいたのに。決して投げやりというわけではないんだ。いつもと変わらずにこやかで、ここに残る僕を気づかってくれて――。



「あと一週間もすれば、一度帰るからね」

「うん。待ってる。アルも、無理しないでね」


 澄んだ瞳が、僕を見つめている。心配そうに。僕は「うん」と頷いて、彼の頬にキスをした。


「コウこそ、無茶するんじゃないよ」


 僕の眼差しを受けとめて、コウが困ったように苦笑する。これだから信用できない。僕の恋人は――。「無理だよ」と瞳で語って嘘をつけない。


「大丈夫だよ、俺もマリーもいるんだしな。家のことは、当分コウに負担をかけないようにって、彼女とも話してるんだ」


 ショーンが気さくに口を挟んできた。もちろん、僕の言う「無茶」の意味を解って言っているのだ。彼はマリーと二人で、赤毛は家に立ち入らせないつもりなのだ。ブラウン兄弟を家に迎え入れることで、コウはもう現実的な家事をこなす必要はなくなる。その分の空いた時間に、ショーンは大学の友人たちにも頼って、コウが現実感覚を取り戻せるようにより機会提供してくれるつもりなのだ。普通の大学生の楽しみを、コウに教えてくれるはずだ。


 そうやって、少しづつ慣らしていけばいい。赤毛が戻ってくるまでのコウは、ちゃんと現実を生きることを楽しんでいた。そのことを思いだして――。僕は確かに、そんなコウを知っていたのだから。


 今のコウは、透き通っていて綺麗だけど怖い。実体ではなく影を見ているようで不安になる。僕の好きな、生き生きとしたコウに逢いたい。コウを好きな気持ちには変わりはないのに、哀しくなる自分を止められない。



「アル」


 コウが背伸びしてキスをくれた。ショーンがすぐ横にいるのに。その向こうから、車が砂利を踏む音が聴こえてきた。


「ああ、来たみたいだ」と、ショーンが呟く。コウはもう一度僕をぎゅっと抱きしめてくれる。



「そのときには、きみのそばいるから。目を瞑って、僕を呼んで」

「え、どういう――」

「コウ」


 僕の問いはショーンの声にかき消され、コウは「うん」と彼に返事すると、ゆるりと僕から離れていく。


「アル、あんまり心配するなよ、大丈夫だからさ」



 ショーンの声が頭の上を通り抜ける。コウが車に乗りこむ。行ってしまう。僕を置いて――。


 二人が、何か、言っている。声が、意味をなさない音になる。





 ――目を瞑って、ほら、僕はきみのそばいる。


 コウが、僕を抱きしめて、囁いている。




 


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