大地 8.
チョコレートのようにべとべとに溶けかけている階段を駆け上がり、ひた走った。幸い階上にはまだ火は回っていない。だがここまでの短い距離の間に、僕たちは汗と煤ですっかり燻されていた。そのあげくにたどり着いた浴室も、足下から焚きつけられる蒸し風呂へと変わっている。
「アル、下ろして」
そっと床に下ろすと、コウはよろめきながらアビーのドレッサーの前に立ちシャツを脱ぎ捨てた。そして、大きな瞳を震わせ僕に飛びつくと、ぐいと顔をよせてキスをくれた。わけが分からず、そのままコウを抱きしめて応えようとすると、今度は身体を押しやられる。こんなふうに考えるより先にくるくると動かれるのでは、心が重なっていても判らないじゃないか。
「早く行って。もう扉は開いてる」と、コウは彼の背後の鏡を肩越しに指差す。
鏡に映るコウの背中――。
火焔と蔦模様が絡まりあい円を作り、細く長くうねりながらトンネルのように続いている。白い光がその遠い先から漏れ輝いている。思わずコウの背中をじかに眺めて確かめた。けれど肌の上にあるのは見慣れた、ただの模様でしかない。
「これが扉? コウ、どういうこと?」
「説明している時間はなさそうだよ、早く行って、アル。この世界が崩れてしまったら、戻れなくなってしまう」
「でも、きみの入れ墨が扉って、きみはどうやってそれをくぐるの?」
「僕は大丈夫。ドラコがどうにかしてくれる。仮にも精霊なんだから」
――仮にも、とはなんだ! 仮にもとは! れっきとした精霊だ!
コウの内側から、くぐもった奴の声が悪態をついている。
「そんな当てにならない話があるかい。奴はきみをこっちの世界に置いておきたいんじゃないの? この入れ墨が扉になるっていうのなら、僕のトリスケルだってそうじゃないか。きみはそこからこの世界に取り込まれたんだろ? コウが先に戻ればいい」
「なに言ってるんだ! きみは、」
「僕には精霊の加護があるんだろ? そう言ってくれたじゃないか。それに、彼も約束してくれていたよ」
祝福を――。
僕の真剣な眼差しを、コウは泣きそうに顔を歪めて拒んでいる。こんなとき、コウという僕の恋人は、まったく信用できなくなる。僕を優先するあまり、僕を騙しかねないのだ。ここで無理やり頷かせたところで、その通りにしてくれるかはとても怪しい。
頑固な彼を頷かせるには、押し問答よりも別案を探す方がいい。
「これは? 扉として使えないかな?」
ポケットのなかに畳んでいれておいた、魔法陣のコピーを広げてみせた。アーノルドのノートにあるものと正確に見比べようと、アビーの人形を映した写真から僕が図面に起こしたものだ。そのままポケットに入れたままになっていたのだ。
「でも、これは入り口だから」
「大丈夫」
ドレッサーの引き出しを開け、そこにあったアビーの飾りピンを数本手に取った。鏡に向き合う壁に、コピーの皺を伸ばし、ピンを挿して四隅を留める。
「ほら、出口になった」
鏡に指差す僕が映る。その同じ鏡面には、魔法陣ではなく白く光る扉が映っている。
「アビーが、僕たちを守ってくれてるんだ――」
コウが、泣きそうにくしゃくしゃな顔で笑んで呟いていた。
「さぁ、行こう」
差しのべた僕の手をコウが握る。互いの指を絡ませた手で、鏡に映る小さな扉を押し開けた。
爽やかな風が駆け抜ける緑の草原。
なだらかな丘のうえ。
アビーが腕を広げて、呼んでいる。誰かを呼んでいる。
あなたが呼んでいるのは――。
あなたの許に駆けて行きたかった。
あなたに抱きしめてほしかった。
でも、僕の足は動かなかったし、つないでいるこの手を離すこともしなかった。
コウがずっと握っていた金色の繭玉を彼女に向けて放り投げる。
彼女は両手を伸ばしてそれを受け取った。
アビー、母さん、あなたはずっとここで待っていたんだね。
彼を――。
カ、シャーンッ――!
柔らかで、冷たい、陶器の壊れる音が響き渡った。
僕は地面に膝をつき、砕け散り、バラバラになった人形の残骸を胸に抱いていた。ここがどこだか、今何をしているのか、すぐには判らなかった。まるで長い眠りから覚めたばかりのように、ゆっくりと伏せていた顔をあげ辺りを見渡す。月明りの照らす紺青の闇のなかに男が倒れていた。そしてその横にもひとり、僕に背を向けてしゃがんでいる。
「スティーブ」
ようやく記憶がつながり、僕はその背中に声をかけた。
彼が振り返る。
「アル――、手伝ってくれるかい?」
暗く沈んだ、けれどしっかりした口調だった。僕は人形を傍らの大地に置き、歩み寄って倒れているアーノルドを一緒に抱え起こした。
彼は意識が混濁しているだけで、息がないわけではないらしい。同じだ。ここへ来るきっかけとなった、コウのときと――。
「アルバート」
アーノルドを二人がかりで支え山道を下る途中で、スティーブは抑揚のない口調で僕を呼んだ。
「はい」
「すまない」
「いいえ、僕ではきっとできなかった。僕は感謝しています」
それから館に着くまで、彼はもう何も言わなかった。
 




