大地 5.
コツンと石段が靴先に当たり、閉じていた目を開く。眼前には見覚えのある高い煉瓦塀、そして黒い蝶番で装飾された樫の扉があった。
ようやくアーノルドの館に着いたのだ。重く軋む扉を押し開けて中に入った。ここを出発した時点では咲き初めだった白薔薇は、すでに盛りを迎えていた現実の景色と変わらなくなっている。
「地の精霊の檻からは出られたよ。時間が動いている。現実と重なり始めているみたいだ」
耳許でコウの声が響く。肩にかけられた手から徐々に重みがかかり、コウの形が戻ってくる。ここはコウだけの内的世界ではないのだろう。アーノルドとコウの世界が重なる空間に入ったらしい。
「現実に重なるなら、もう戻れるってこと?」
ほっと息をついたのも束の間、肩を抱いた僕を見あげてコウは厳しい表情で頭を振った。
「それよりも狭間の時へ堕ちてしまう可能性の方が高いよ。本物の虹のたもとへ囚われたら、戻ることなんてできなくなってしまう」
そう簡単に生者が冥界に出たり入ったりできるようじゃ、困るんだ――、とコウは一人言のように口のなかで呟く。
火の精霊の囚われた場所がアーノルドの中間領域を兼ねていたからこそ、コウはここへ囚われながらも、現実を行き来することができていたのだ。そしてそれは、閉じられた人間の意識世界だからこそ、奴は自身の魔力で以てしても、ここから抜け出ることができなかったのだという。などといくら説明されたところで、僕にはその法則性は見えてこないのだが――。
コウが深く息をついた。張り詰めた面持ちで館を見つめている。彼の視線の先を追った。けれど彼が何を見ているのか僕には判らない。
「スティーブに、火の精霊の人形のありかを訊きにいこう」
コウが僕の手を取った。ぎゅっと強く握りしめる。ここまでの彼とはどこか違う。ピリピリとした緊迫感が伝わってくる。彼は自身の辛い過去でさえ、淡々と静まった心情で僕に見せてくれていたのに――。
向かう先で何が待つのか、コウはすでに知っているのだろうか。
向かい風がピシピシと頬を打つ。僕には意地悪な風なのに、コウには優しく髪の毛を弄ぶだけ。「ずいぶん扱いに差があるんじゃないの?」と、つい宙に向かって文句を言ってしまった。コウがクスクスと笑う。
「彼女はきみをからかってるだけだよ」
「ふうん、風って女の子なの? じゃ、キスをあげたら優しくしてくれるかな?」
「僕が優しくなくなるかも――」コウがチラリと僕を見あげる。
「じゃあ、きみにキスをあげるよ」と、コウの髪にキスを落とした。ほわりと空気が和らいだ。ここはまだコウの領域でもあるらしい。
じゃあ、さっきの風は?
問いかけてみたけれど、今度はコウも知らんぷりしている。
裏口から入ったにもかかわらず、コウは迷うことなく正面玄関に向かい、その手前にある居間のドアノブに手をかけた。確認するように僕に視線を向ける。僕は軽く頷いて応えた。
静かにドアが開けられる。分厚いカーテンの閉められたままの薄暗い部屋のソファーに、スティーブが一人で座っていた。項垂れて、膝についた両腕で自身の頭を支え、手のひらを広げて顔を覆っている。その彼のすぐ横に深緑色のノートが置かれている。彼の背後にある黒大理石の暖炉では煌々と焚かれた火が踊り、深緑のブロケード張りの壁に映る彼の影がゆらゆらと揺らめいていた。
ゆらり、とスティーブがノートを掴んで立ちあがる。肩を落としたまま、まるで幽鬼のように生気のないさまで、暖炉の前に立つと、ふっ、とノートを暖炉に投げ入れた。薪が崩れ、火の粉が上がる。彼はその上にさらに薪を一本、二本と投げ入れる。そしてそのまま、絨毯の上に膝をついて動かなくなった。
「スティーブ、」と彼のもとへ行こうとした僕を、コウは押し留めて首を横に振った。そして「僕が――」と腕を離して、彼に歩みよる。
スティーブの肩にそっと手をかけて、「この魔法を終わらせる時がきました。火の精霊の人形はどこにありますか?」と、コウは静かな涼やかな声音で囁きかける。
「書斎だ。彼が守っている」
振り向くことも姿勢を変えることもなく、言葉だけがスティーブの口から零れ落ちた。
「長い間ありがとうございました。あなたの想いが報われ、精霊の加護のあらんことを――」
戻ってきたコウが、僕の腕をとる。
再びこの部屋のドアを閉めたとき、ドアの向こうで、柱時計がボーン、ボーンと時を告げた。
廊下に出てから、コウに訊ねた。
「これはいつの記憶なの? あのノートには火に焼かれた痕なんてなかったのに」
「火の精霊を封じているからだよ。彼らの秘密を記したノートを、彼の許可なく焼くことはできないんだ。これがいつごろの記憶かは僕も判らない。でも、」
「スティーブは――」
「願いが成就するとはどういうことか、理解したんだ」
コウはある種冷淡に聴こえるほど、淡々と喋っている。まっすぐ前方を見据えて――。
こんなとき、コウは自分のことを冷たい人間だと誤解しているのだ。でも本当はそうじゃない。コウは優しすぎるのだ。優しすぎて、あまりにも深く他人の感情に共鳴してしまう。簡単に相手の感情に呑まれ自分を失ってしまう。こんなにも強く防衛を築かなければ、その柔らかな心を守れないほどに。そのうえ、そんな自分を恥じている。だからこうして感情を封じ込めてしまうんだね。
自分自身を誤解しないでほしいんだ。きみは間違っていない。自分を守っていいんだ。それできみの優しさが損なわれるわけじゃないんだよ。
コウが僕の腰に腕を回して、ぺたりとくっついてきた。僕は彼の肩を抱きよせた。頬をぴたりと寄せてくる。二人で一つの身体になったみたいに歩調を合わせて、呼吸を重ねて、僕たちは歩いていった。




