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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
182/219

大地 4.

 コウの最も大きな精神的外傷(トラウマ)となった、ブーティカの塚での受肉の儀式の場面に行き着いたのだ。

 すっと伸びる常緑の樹々に夕陽が赤々とかかっているのに、景色を映す明度も彩度もそれまで以上に暗くなっている。コウはこの記憶を僕に見せるのを嫌がっているのだ。けれど、僕は知りたい。きみに起きたこと。きみを傷つけたこと。きみの痛みを理解したい。感じたいんだ。


 そんな僕の我がままに、コウは不承不承応えてくれた。





 言葉で聞く、魂を分け合い融合するということの実態は、とても言い表されるような美しいものではなかった――。


 文字通り、骨を断ち肉を割くように。麻酔なしで外科手術を施されるような痛みを伴って。そんな野蛮なやり方で奴はコウの魂を奪ったのだ。この感覚に耐え、コウが正気を保って生き続けてくれていることの方が奇跡だ。コウが死にかけたから、仕方なく奴が自分の魔力でもってコウの生命力を補うしかなかったことにも、納得がいく。


 黒々とした煙で覆い隠した周囲の樹々を焼く焔の円環(リング)。コポコポと湧きあがる鮮やかな血の赤。その中心で、コウは悲鳴をあげていた。その声はコウの意志とは関係なく、呪文となってその口から形作られ、焔の鎖に変じてコウを縛る。抵抗することもできないまま、ざっくりと切り取られ奪われる。コウの魂は咀嚼され消化されて、奴の血肉となって赤毛の形を成していく。そんな地獄の業火にも似た灼熱のなかで、儀式は粛々と進んでいく。


 コウは僕に、自分の身に起きたことを在りのままに感じさせてくれたわけではなかった。そんなことをすれば、僕はその場で死んでいたかもしれない。僕が、彼の得た痛みに耐えられるとは、とても思えないのだ。紗のかかったようにゆがんだ情景から伝わる感覚でさえ、これだけの不快と痛み、理不尽な自分自身の喪失という、到底現実では想像し得ない感覚に脅かされ、拒否反応さえ感じているのだ。

 こんなことを許せるものか! 必ずコウと赤毛の契約を終わらせ、コウの奪われた半身を取り戻してやる。そう、固く心に誓った。



 ――できるものならやってみろ。


 コウの魂で人の身体を手に入れた、ふてぶてしい赤毛が笑っている。


 ――言っとくがこの因果の発端は俺じゃない、おまえの属する地の精霊(グノーム)だぞ。だから巡り巡っておまえに尻拭いが回ってきたってだけの話だ。自分に意志があるとでも勘違いしているようだがな、おまえとこいつの繋がりなんて、たかだかそんなものでしかない。


「コウの意志を無視して彼を侵襲しておいて、何を言ってるんだい。コウを媒介にしなきゃ、喋ることもできないただの現象のくせに!」


 ――おまえだってその現象でしかないのに、自分だけは特別な何かだと思いあがるな! 機会(チャンス)をやる。ことが成就して、コウがこの因果律を離れてもなお、おまえに心を預け従うかどうか試してみろ。


 赤毛はニタニタと笑いながら、すっと腕を伸ばし指で闇の向こうを指し示す。




 遠くに白く霞む景色のなかに、ロンドンの街並みが見えた。煉瓦造りの建物が立ち並ぶ一角、歩道に面したカフェテラスの白いテーブルの前に僕がいる。苛々した様子で落ち着きがない。行きつけのカフェじゃない。いつだ? いつの記憶だ? 


 僕は忙しげに辺りに視線を漂わせ、テーブルに置いてあるアビーのペンを、ピンッと指で弾いてウッドデッキの上に落とした。


 カツンと跳ね、足元に転がるメタルブルー。そんな僕の気まぐれな行為を咎めるような視線を感じて、口の中で自分自身に悪態をつく。


 ああ、そうだ。思いだした。

 あの日、僕はアビーのペンを自ら棄てたのだ。ちょうどアーノルドの定期面談から戻ってきたところで、今度こそ終わらせよう、何もかも棄ててしまおう――、と。アンナから聞いたあのペンのいわくや、アビーの想いさえも煩わしく感じていたのだ。運命に導かれる、そんな恋などあるはずがない。自分以外の何かに未来を委ねるなんて馬鹿馬鹿しい、と。


 自分自身を投げ捨てるように、僕はアビーのペンを投げ捨てた。



 コウだ!

 

 コウが僕を見つけた。

 

 周囲の喧騒が消えている。

 景色さえもが、かき消える。


 この世に僕だけしか存在しないかのように、僕を見ている。

 この世界にたった一人の、きみの対象。


 胸のあまりの高まりに息をすることさえ苦しくて。視線は釘付けにされたまま。空でも飛べそうなほどに心が舞い上がる。


 見つけるということは、こんなにも興奮するものなのか――。



 コウが僕の立ち去った後の席に座る。ペンに気づいて拾いあげる。僕の運命を拾いあげる。


 コウが、僕を――。





 僕はここで目を瞑った。ほっと息をつき、目を閉じたまま歩きだした。

 僕と出逢ってからのコウの心を知るのが怖かったからじゃない。知りたい想いも、確かめたい気持ちも山とある。

 けれどこうして彼のすべてを暴きたて、僕のものにしてしまうことが、とても彼を損なうことのように思えたのだ。


 コウは僕を愛して、信じてくれている。だから僕は、安心してここにいることができている。今さらそれを疑うことはない。

 

 僕に暴かれ、侵襲され、支配されることなく、きみは心のままに、密やかに僕を想っていて――。


「きみは謎のままでいい」



 そう呟いた僕の額に、コウはそっとキスをくれた。


 

 



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