化身 8.
抱きしめていたはずのコウがいない。僕の触れる先から空気に溶けて、僕を包んでくれているのだ。僕もこの輪郭を棄てて、コウのなかに混じりたい。一つになりたい。コウと永遠に。
この原初の海に還ること――。
それが究極なのではないかと思うんだ。
僕たちは大地の揺りかごに揺さぶられ、虹色に揺らめく波になって、打ち寄せ、また返しながらながら揺蕩うんだ。繰り返される鼓動と、彼の歌う子守歌を聴きながら。
「コウ――」
「いい加減にしろ!」
悪夢だ――。僕の組み伏せていたコウが奴になった。
「コウはどこ?」
「おまえが溶かしたんだろうが! さっさと、どけ! このナルシストが!」
「なんできみが出てくるんだ? きみはただのエネルギーなんだろ? そのまま燃え尽きてくれればいいのに……」
「死にたいのか! 馬鹿も休み休みに言え!」
「この世界が死だっていうのなら、それもいいかなって思えるけどな。コウとこんなにも一つでいられるのなら――」
「おまえがそうやってこいつを喰うことばかり考えるから、こいつはどんどん希薄になって消えかかってるんだろうが!」
「コウが空気になるなら僕もそうなるよ。僕はコウのなかにいるんだもの」
忌々しい赤毛から身体を離し、黒々とした大地にそのまま腰を据えた。ああ、確かにこの空気はコウだ。僕はこんなにも楽に呼吸ができる。全身でコウを感じることができる。
「おまえはよくても、こいつはそんなこと望んじゃいない」
「きみとの約束があるから?」
改めて、赤毛をまじまじと見つめた。地面の上であぐらをかいている奴は、動作こそ粗暴でふてぶてしいけれど、確かにコウの身体だ。ただ、顔つきと入れ墨だけが違っている。赤毛の火焔には、コウのような緑の蔦の絡まりはない。
「ああ、そうだ。きみに一言言いたかったんだよ。あの入れ墨! コウの説明ではとても納得できなかったよ。コウは消せないって言っていたけど、きみになら消せるんだろ? 消してくれ。あのままじゃコウが可哀想すぎるし、僕も不愉快だ」
「おまえって奴は、どこまでも自分本位なんだな!」
「きみに言われるいわれはないね。きみがのっとっているコウを返してくれさえすれば済む話じゃないか」
赤毛はこれみよがしに、大きく息をつく。息、というよりも小さな焔だ。まるで御伽噺の火を吐く龍か、サーカスの芸人だな――。などと想像している僕の頭のなかには奴は感心がないらしく、こんな挑発には乗ってくることはなく、言いたいことだけをのたまわっている。
「おまえなぁ――。いい加減にこいつにしがみつくのをやめろ。こいつはおまえの栄養じゃないし、酸素ボンベでもないんだぞ。俺とこいつとの仲はな、太古から定められた血の契約に基づいているんだ。おまえがとやかく口出しできることじゃないんだよ。だいたい、おまえこそ地の精霊の末裔のくせに、精霊の力を私事ばかりに使いやがって!」
「話をすり替えるんじゃないよ。事の発端はきみだろう? だが、今はそのことを言っているんじゃない。彼の入れ墨のことを話してるんだ」
「だからそれは、コウが説明しただろうが! おまえはその模様で前以上に地の精霊の霊気を帯びて道を作っちまってるし、おまえが横にいるだけで、こいつはこっちの世界に引きずり込まれちまうんだよ。そのための防衛じゃないか!」
「コウは逆のことを言っていたけどね。僕がいないと眠りに堕ちるって――」
「だからそれは、」と言いかけて赤毛は派手にため息をついた。
「これだから頭の悪い奴は嫌なんだ」
こっちのセリフだ!
納得させるだけの根拠を持ち合わせていないくせに、理解できないのを相手の能力不足のせいにする。きみの知性の方を疑いたいね。などと言い合っていてもしかたがない。
空気が震えている。コウが不安に思っているのだ。
「コウ、戻ってきて」と宙に向かって手を伸ばした。キラリと光った糸を手繰って、金の毬を持つコウの手を掴む。そこからコウが固まっていく。コウが形作られていく。
「良かった」
立ちあがって、コウの肩を抱いた。コウが可視化された分、見おろした赤毛は逆に透き通っている。
「ここがコウの内的世界なら、べつに、きみはコウの形のなかにいなきゃいけないってわけでもないんだろ? コウ、行こうか」
「アル、ちょっと待って」
コウがまた、困ったように瞳で縋る。まだこの赤毛を庇うのか、とうんざりした思いが湧きあがる。
「違うんだ。きみはすっかり忘れてしまっているみたいだけど、ショーンを捜さないと。彼が火の精霊の人形を持っているんだろ? あれを壊さないと、たぶん、出口につながらないと思うんだ。そうだろ、ドラコ?」
コウの眼差しが赤毛に向けられる。奴は不貞腐れたように座ったまま動かない。周囲の景色はすっかりもとの青々とした森のなか。
そうだ、忘れていた。ショーンのことよりも、僕はここでの儀式、僕の知らなかったスティーブを見たことを思いだしていた。
まったく、すっぽりと、忘れていたのだ。そんな自分にようやく気づき、愕然としてしまっていた。




