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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
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化身 5.

「なんとも壮大な話だね」


 僕に言えるのはそんなことくらいか。

 誇大妄想――。コウの内的世界で生きていくのは、思ったよりも大変かもしれない。ある意味、命がけだ。でもだからといって、コウへの想いが冷めてしまったわけじゃない。こんな大ごとな使命を負って、外的現実を生きていくのは困難が伴うだろうな、と思うだけで。むしろそこは僕が支えてあげればいいのだ、とかえって気が楽になったかもしれない。――もっとも、現実に戻ることができれば、の話だが。


 

「よいしょ」と、コウが立ちあがる。「なんだかすっきりしたよ。僕はもうほとんど諦めていたんだ」


 僕を見て、とろけるような笑みを浮かべる。差し伸べられたその手を掴んで、僕も遅れて腰をあげた。

「これは、きみが持っておく?」と例のキノコを差しだした。コウは首を振って、「持っていて。ここを抜けるには、きみの手が道しるべを握っている方がいい」と、またよく判らないことを口にする。


 まだまだ聴きたいことはあるのだが――。なんだか、それほど大切なことでもないような気がしてきた。コウは僕を想ってくれている。コウのなかにちゃんと僕がいる。それが解っただけで充分だ。




 それから道々話したことから解ってきたのは、アーノルドの妄想世界の「虹のたもと」と、本当の冥界の入り口にあたる「虹のたもと」とは別だということ。生きている彼の出入りできる中間領域としての「虹のたもと」でありながら、同時に赤毛――、火の精霊(サラマンダー)を封じるための閉じられた世界でもあることから、本来の「虹のたもと」と重なっていながらズレが生じているらしいのだ。そしてそのズレが、彼の妻(アビー)のうえに現れていた綻び、ということだった。


火の精霊(サラマンダー)を封じたといっても、彼の本体は大地の内側にあって、外に現れる現象の過剰分を封じたに過ぎないんだ。だけど、彼にしてみれば自由を奪われ、水の精霊(ウンディーネ)には好き勝手に世界を荒らされ、たまったものじゃない。だからこの封印を解くために、そのわずかなズレから彼の卵をマグマにのせて地表に流したんだ。それがドラコだよ」

「つまり彼は、火の精霊(サラマンダー)の子どもみたいなものなの?」

「ちょっと違うかな。強いて例えると――、分身。あるいは影かな」


 僕たちに見える赤毛は実体のある人間ではないらしい。本来現象である火の精霊(サラマンダー)は、形を持たない。コウが初めて赤毛に出逢ったときの姿は、僕のあげた蜥蜴(とかげ)の指輪に似た、火蜥蜴(ひとかげ)だったそうだ。その蜥蜴の姿にせよ、アーノルドの人形を(かたど)った姿にせよ、外見だけでなく彼のあの性格にせよ、人間の投影した火のイメージを凝固したものにすぎないのだという。


「そしてきみは地の精霊(グノーム)の性質を有しているわけだから――」


 僕が赤毛を憎み嫌うほどに、彼を大地に封じる精霊の力が増して、コウの意識ごとこの結界内に引き寄せ、封じ込める力として働いてしまったということらしい。異界の扉となってコウを巻き込むきっかけとなったのが、トリスケルの渦なのだそうだ。僕は僕の上に、コウのなかの火の精霊(サラマンダー)を封じる作用を無意識のうちに具現化してしまっていたのだ。さもありなんだ。僕は(やつ)を地中深く埋めてしまいたい気持ちでいっぱいだったもの。




 コウが、きゅっと僕の手を握る指先に力を込める。歩調が乱れる。呼吸が浅くなっている。


「僕は、イギリスに着いてすぐに、地の精霊(グノーム)の宝を探すように言われて――。(サラマンダー)の封印を解くには、地の精霊(グノーム)の赦しと加護がどうしても必要だったんだ。だから、その宝を盾にして、地の精霊(グノーム)の庇護を――」

 

 声を詰まらせたコウの肩を、しっかりと抱いた。

 大丈夫だよ。コウ、不安に思わなくてもいいんだ。

 

「きみは知らなかったんだね。僕をここへ呼び寄せることになるのを恐れて、目覚めることさえも拒んでしまっていたんだね」

「――精霊の血を継いでいるといっても、きみは現実世界でちゃんと生きている人だもの」

「きみだってそうじゃないか」

「僕は――、もうほとんどこっちの世界の住人だよ――」


 足を止めて、コウと向き合った。コウは僕から顔を逸らしていた。片手にはキノコの繭玉を握ったまま、コウの両頬を掬いあげてのぞきこんだ。


「そうじゃない。コウ、きみだけじゃないんだよ。人は誰でも、内的現実と外的現実、この二つの世界に住んでいるんだ。けれど普通は、その二つの世界に架ける橋を持っているってだけなんだよ」


 じっと彼の目を見つめて、言い聞かせるように言葉を継いだ。


「ぼくの専攻する分野では、夢がその橋の役割をすると教わったよ。僕の夢のなかで、きみは何度も僕を呼んでくれていた。僕に向かって橋を架けてくれていたじゃないか」


 コウは泣きそうな顔をして、僕から目を逸らそうとする。僕はますます彼に顔を寄せて囁くような小声で続けた。


「コウ、もう僕から逃げないで。きみの内的現実と外的現実の間には、おそらく大きな乖離があるんだ。でもどちらも、きみにとって大切な現実なんだよ。僕には一方が正しくて、もう一方は間違っているとも、一方を棄ててもう一方のみを選んでくれ、なんて言うこともできないよ。そんなことを言う気もない」


 ああ、またコウを泣かせてしまった。彼の顔を支えたまま、この涙を唇で拭いとる。コウは喉をひくつかせて嗚咽を殺し、深い吐息を漏らしている。


「どちらの世界にいるきみも、きみだってことは変わらない。僕の住む世界ではきみは生きづらく、この内的世界の方が、きみにとって生きやすいのであればそれでいいんだ。僕はきみといっしょにいたいだけ。きみがここに留まりたいのなら、僕も――。コウ、僕もここにいていいって言って」



「できないよ。きみは、きみの世界に、帰らないと――」

「コウ、」

「いっしょに。アル、いっしょに帰ろう」


 コウがコツンと僕の肩に頬を当てる。僕に甘えるときの彼の癖。


「もしもきみが、外的世界がどうしようもなく怖いのなら、僕がきみの橋になる」


 コウを抱きしめて、耳許で囁いた。


 怖いのも、つらいのも、我慢しなくていい。

 僕たちは支えあって生きていけばいいのだから――。




 


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