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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
172/219

化身 2.

 明るく輝く焔の環のなかから、コウの腕がおそるおそる伸ばされる。僕は白薔薇(アイスバーグ)を差しだして、ようやく触れることのできた彼の指に、花を挿んだまま僕の指を絡ませ握りこんだ。そして、妖精の環(フェアリーリング)をまたぎ越して内側へと足を踏みいれた。



 きみが僕の許へ戻ってくれないのなら、僕がきみの許へ行くまでだ。そもそも僕には帰属する家族も、失いたくない世界なんてものもない。魔術的世界に囚われるというのなら、それでかまわない。きみさえいるなら、どこだっていい。



 コウは驚いた顔で僕を見ている。大きく目を見開いたまま、涙をボロボロと溢れさせている。片手で彼の頬を包み、親指の腹でその涙を拭いとった。


「僕の手は、やはりきみの涙を拭うためにあるようだね。きみはこんなふうに泣いてばかりだから、僕はちっとも安心できない」

「――嬉しいんだよ。僕は嬉しくて泣いているんだ」


 コウの声。確かなコウの声が応えてくれた。彼は瞼を瞬かせて、握りしめていた拳を口にあてた。白薔薇が淡い光になって、コウのなかに吸いこまれていく。


「きみは、見つけてくれたんだね――。この一輪の花は、奪われ、隠されたきみへの想いだったんだよ。あの庭には、あんなにたくさんのきみへの想いが咲き乱れていたのに、きみは(あやま)たず僕を見つけてくれたんだね」


 僕への想い――。あんなに可憐でいじましい花が、僕への想い?


「僕を許してくれる?」

「許すも何もないよ。僕の方こそ、きみに謝らなきゃいけないのに――」

「謝るって?」


 ずっと目覚めなかったこと? 

 でもそれは、きみのせいじゃないだろう。想いを奪われていたのなら――。


「こうしてきみを巻きこんでしまった。こんなところまで、きみを(いざな)ってしまった。ぶじに帰れるかどうかも判らないのに――」


 辛そうに眉根を寄せて悲痛な眼差しを向けるコウの頬に、ようやくキスをした。ぎゅっと抱き寄せた。それからおもむろに周囲の景色を見回す。



 闇。


 あれほど燃え盛っていた焔はいつの間にか消えていた。のぞきおろした足元には地面がない。



 落ちる――。



 ぞっと背筋に緊張が走る。コウがぐっと背中に回した腕に力を込めて僕を支えてくれた。そうだ。ここは僕の観念の世界でもあるのだ。


 地面を。


 コウと一緒にいるここが僕の立つ地面だ。柔らかな草の感触を感じて、匂いたつ草いきれを、花の香りを胸いっぱいに吸いこむんだ。視覚よりもイメージは楽なはず。視覚はいつも惑わされてばかりだから。


 でも――。


「ほら、コウ、見て。帰り道を作っておいたんだ。見えるだろ」


 コウの肩を抱いて身体を離し、逆の手に握りしめていたものを彼に見せた。ふわふわに弾力のあるそれは、元の姿をもう保ってはいない。繭玉(まゆだま)のように丸まって、そこからキラキラと光る一本の細い糸を引いていた。


「これは?」


 きょとんとしたコウの顔。かわいい。不思議なことに、この闇のなかでコウはぼうと内側から火が燈っているかのように発光していて、表情も見えるのだ。


妖精の環(フェアリーリング)のキノコだよ。中に入る前に、綻びを作っておいたんだ」


 と言えば聞こえはいいが、妖精の環に触れたとき、何も考えずに生えていたキノコをむしり取ってしまったのだ。この環を壊してしまってはコウに逢えないかもしれない、と後から気がついた。苦肉の策で、お守りになるからとショーンに言われてポケットに入れていた白い石を、キノコの替わりに置いておいたのだ。



 そう、冷静になりさえすれば、今まで見えなかったものも見えてくる。


 このキノコは、どうやら地面に残った部分といまだ繋がっているらしく、長い菌糸を伸ばしているのだ。



「アル――」

「ん?」


 またコウの大きな瞳がうるうると潤んで僕を見ている。でも今度は微笑んで。


「キスしてもいい?」


 コウがくしゃっと笑った。これは、いいよっていうことだよね?





 なんだか幸せすぎて、これも夢じゃないのかという気がしてくる。こんな気分に浸っていると、僕の欲望はどんどん肥大して手に余るほどになってしまう。だから仕方なく息をついて、コウから身体を離した。


「僕はきみの世界を否定したりしない。実際のところ、僕はここにいるんだもの。今度こそ信じてくれるよね? 教えてほしいんだ。きみにとってここはどこで、今、僕たちには何が起きているのか」


 コウは大きなトパーズの瞳で、やっぱり僕をじっと見つめていた。それからもう一度僕の背中に両腕を回して肩にぴたりと頬をつけ、ゆっくりと頷いた。

 するりと腕が離れ、「座って」と言って、コウはその場に腰をおろした。この状況で腰を落ち着けなければならない内容なのか、とむやみに緊張してしまう。彼はそんな僕の小心さに気づいたのか、抱えた膝のうえに頭をのせてクスクス笑った。






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