虹のたもと 6.
アーノルドの魔術師たちは、アビーの人形を用いて彼女の魂を虹のたもとに閉じこめた。封印としての人形――、僕たちはそう思っていた。だが、それの意味するところは「入り口」でしかなかったのだ。
異界への扉となる魔法陣は、二つある。「入り口」と「出口」だ。
僕はその「入り口」から、こうして虹のたもとに導かれた、ということだろう。人形が破壊されてもコウが現実に戻ることなく、僕がここにいる、とはそういうことだと思う。
そもそもこの魔法に「出口」は用意されていないのではないか。「入り口」を破壊しても、アビーの魂が、そしてコウが解放されることはないのではないだろうか。
だが、彼の施した魔法が打ち破られて崩壊を始めていることも確かなのだ。アーノルドの内的世界を監視する超自我は、アビーも彼自身をも、虹の橋を渡ることを許可しないまま、この世界そのものを完全に閉ざしてしまうのかもしれない。
そしてこれは僕の推測でしかないのだけれど、赤毛は、もっと早いうちからコウにこの暗示を施していたのではないだろうか。それこそアビーの人形にある「入り口」を使ったのかもしれない。そして、奴はあの部屋の天井に「出口」を作ることで、コウに虹のたもと、常若の国へ出入り可能であるかのように思わせたのだ。あの場所でコウは、身体の不調を意識することなく、より快適な内的世界に浸ることができたのだろう。赤毛がコウを自分の傍に囲うための、恰好の手段に使われたのだ。
ならばこの世界で僕のすべきことは、赤毛の作った出口を探すということになる。ぞっとしないな。また奴の思うツボだ。どこまでも僕は奴の手のひらの上なのか――。
そして僕は、アーノルドのノートから集合的無意識にある様々な元型の象徴的図案に触れていたために、相互的に彼らの創りだした魔術的世界に捕まってしまったのだろう。あるいはあのノートそのものに、暗示的な作用が組み込まれていたのかもしれない。
何にせよ、気づくのが遅すぎたのだ――。
だが、それだけでは、まだショーンとコウが消えた理由の説明にはならない。アーノルドが、何を仕掛けていたのかも。彼の内的世界の維持に、外的世界にあるコウの身体が必要だとは思えないのだ。
僕の注意を促すように、ワン、ワン、と大きく吠えたアレクサンダーの声に、ふっと思索が止まる。
眼前にそびえる高い煉瓦塀に、ああ、着いたのか、と納得する。膝を落として、淋しそうな瞳で僕を見ている彼を抱きしめた。
「行ってくるよ。またきみに逢えて嬉しかったよ」
名残惜しげに、彼は喉を鳴らしている。
黒い鉄柵門に鍵は掛かっておらず、軽く押すとなんなく開いた。
現実の彼の館とは違って剪定された植え込みはなく、白薔薇だけが、それこそ氷山のように群れ咲いている。館の壁を覆う蔦は、まるで眠れるいばら姫の城だ。まさか、ここでもコウは眠っている、などとなったら冗談でも笑えないが――。
白薔薇が蠢いて揺れ、ザザッと音を立てて、次々とまるでお辞儀でもしているかのように頭を垂れていく。人一人通れる程度の道を作り、玄関へと僕を誘う。
まるで御伽噺の世界だ。さすがアーノルドの内的世界だな、と妙なところで感心しながら進んでいった。
玄関のドアまでが、心得たように自動で開く。
取り敢えず、ぐるりと玄関ホールを見渡した。テラコッタの床に白い漆喰天井、調度品も現実との差異はないように思える。
階段を上がって、まずはコウのいた部屋を確かめることにした。
深いこげ茶のオーク材のドアの前に立ち、綺麗に磨かれた真鍮のドアノブを握る。心臓がドキドキと早鐘を打つようだ。
どうか、コウがいますように――。
そんな祈りを口のなかで呟きながら、ドアを開けた。
「おやすみなさい、わたしの赤ちゃん、木のうえの赤ちゃん――」
低く、囁くような歌声――。
少しだけカーテンの開けられた窓辺に腰かける人影は、逆光と部屋の薄暗さのために誰だか判別できない。その影の膝上には、野草の刺繍された大きな布に包まれた赤ん坊が抱かれている。
「かぜがふいたら、ゆりかごゆれる」
まさか、あの赤ん坊がコウ?
「こずえがおれたら、ゆりかごおちる」
振り子の音が伴奏のように重なる。
「赤ちゃん、ゆりかご、なにもかも」
まるで呪いだ――。
僕はぞっとしてドアを閉めていた。まさか本当にアーノルドは、コウを赤ん坊に変えてこの世界に産み落としたのではあるまいか、と――。
そんなはず、あるわけがない。アビーの見つけた子どもは少年だ、と言っていたじゃないか。
部屋、部屋が違うのかもしれない。この部屋は産まれたばかりの――。
僕の部屋。
あれは、僕だ。それなら、あの影は――。
息を詰めてもう一度、ゆっくりとドアを開けた。
誰もいない。柱時計もない。しんと静まりかえった寝室があるだけだ。もちろん、コウがいるはずもない。
あの影は、アビー?
くらりと眩暈がした。
倒れそうになって頭を支え、もう一方の手でドアを掴んだ。
アビー、だったのだろうか――。
 




