虹のたもと 3.
火が、ない。
どういうことなのだ。息せき切ってここまで来たのに、僕は自分の目に映る景色が理解できなかった。
視覚だけじゃない。臭い――。
感じていたのに突き詰める余裕すらなかった違和の正体に、ようやく認識が追いついた。樹の焼ける臭いがしないのだ。
それに、音。
風がごうごうと吹きすさび、梢を揺するざわざわとした葉擦れの音は確かにしているのに、火が樹々を舐め、パチパチと燃やす音は聞こえない。それなのに、この視界を脅かすほどの白い煙。煙というよりも、風音さえも呑み込んでしまいそうな、細やかで濃い霧の粒子のような。
そしてその靄を黄金色に染める残照の濃淡は、風に巻かれて大きな渦を作っているのだ。それはまるで、この決して広いとは言えない空間を巨大な蛇が、ずるり、ずるりと身体を引きずりとぐろを巻いて回っているかのようで――。
その下方、金色の靄の湧きたつ大地に、キラキラと光を爆ぜる魔法陣が見てとれた。柔らかな地面に埋め込まれた二重の円環。その円に沿う金彩で塗られた陶器の文字群、月、太陽。それらの上に焔の形を頂きにした杖が放りだされている。香炉や蝋燭もひっくり返され、倒れて散乱しているのだ。
いったい何が起きたんだ? 二人は無事なのか。
間違いなくショーンはここにいたのだ。そこで儀式を中断せざるを得ない何かが生じた。火の扱いを誤りでも――。
人形! そうだ、人形がない! 四大精霊の四体の人形が!
外円の四隅に置かれた焚き上げのために積まれた薪は、確かに火を点け燃やした跡がある。だがそこに人形が叩きつけられた形跡はない。生焼けのまま燻ぶって自然に消えてしまったかのような焦げ跡が、薪に残っているだけだ。
黄昏時の金色が徐々に薄れ始め、この空間を覆う光が朧に色を消し始めている。
それなのに、僕はこの混乱のなかから何も掴むことができないまま、呆然と立ち尽くしているだけだなんて。
何か、何かないかと、緩慢に辺りを徘徊し見回したところで、人の気配もここで火事が発生した痕跡も何もない。二人はどこへ行ってしまったのだ?
「コウ! ショーン! どこにいるんだ? コウ! ショーン!」
何度も、声を張りあげて呼んだ。
コゥ――。コゥ――。
と、僕の声だけが跳ね返ってくる。
――ここだよ、と応えてくれるのは、僕の心に響く声だけ。声は虚しくこの霧のなかに吸い込まれていくばかりだ。
絶望的に見おろした地面の魔法陣。
コウは確かにここにいたのに――。儀式のために、キノコに模した白い石は取り除かれ、代わりに埋められた魔法陣の文字列は、薄闇を湧きたたせているかのような鈍く禍々しい輝きを放っている。まるで放電しているかのように細かく震えて見えるのは、風で揺らぐ霧のせいだろうか。
「アルー! アルゥ―!」
誰かが僕を呼んでいる。エコーがかった呼び声に、声の主が判らない。だがショーンやコウではないのは間違いない。もっと低い年齢を感じさせる声音だった。スミスさんは僕を名前で呼んだりしない。彼には、先生としか呼ばれたことがない。僕の名前なんて知らないのだろう。わけの判らないまま、「はい、ここにいます!」と叫び返す。「声の方へ行く! そこから動かないでいてくれ!」と応答があった。
やがて懐中電灯の照らすまっすぐな光が霧のなかに一筋の線を描き、木立ちの陰から二つの人影が現れた。
「スティーブ! どうしてここに!」
「帰ってきたのに、家には誰もいないじゃないか。やっと連絡の取れたマリーから、きみも、きみの友人たちもここにいると聴いてね。アンナと一緒に訪ねてきたんだ」
スティーブの帰国予定はいつだった? 僕はそんなことさえ忘れていたのか。
茫然と立ち尽くしていた僕を、彼は両腕を広げて抱きしめてくれた。温かい掌で背中をぽんぽんと叩いてくれる。
「どうしたんだい? 私は歓迎されていないのかな?」
いつもしているように、彼を抱きしめ返して、旅の疲れを労って、こんなところまで来てくれたことのお礼を――。そう頭はキシキシ動いているのに、言葉がでてこない。今、溢れ返りそうになっているのは、この状況を受けとめられず混乱している自分自身だけなのだ。
「あ――、スティーブ……」
何を言えば?
唇を震わせ見つめるだけの僕に、彼は優しく温かな笑みをくれ、頭をくしゃりと撫でて片腕でもう一度僕を抱きしめてくれた。
「アル、人形を持ってきたんだね。これだね?」
耳許に寄せられた彼の口から静かな囁きが呟かれる。彼のもう一方の手は、キャリーバッグを握る僕の手の上から、持ち手を強く握りしめていた。




