儀式
居間の後始末が不要になったせいか、いくらか気楽になってショーンのいる書斎へと向かった。ドアをノックする。だが返事がない。訝しく思いながらなかを覗くと、彼は机に突っ伏して眠っていた。
まさか彼まで――、と一瞬不安が過る。
だがショーンの息遣いは荒く、時おりいびきもかいているようだ。コウのような深い眠りじゃない。ほっとすると同時に、強烈に感じた内心の脅えが腹立たしくもあり、彼を起こそうと歩み寄る。
でも――。散乱する書物、象徴的な何かを想起させる怪しげな図柄の印刷された黄ばんだ羊皮紙、電源が入ったままのパソコン、広い書斎机の隅に追いやられている皿に、重ねられた空のティーカップ。長い間延々と眠り続けていたこの部屋に生じているこの小さな混乱が、僕の行動を押し留めた。
ショーンはここに来てからというもの、こうしてほとんどの時間をこの書斎に籠って、コウの心を取り戻すためのアプローチ法を探してくれていたのだ。そして、ようやく一つの焦点を得て、精根尽き果てたといった風情で寝入っている。こんな彼を起こすのはしのびないじゃないか。
そっと静かにこの場を離れた。でも、コウの部屋へ戻る気にはなれなかった。
僕はどうしたって駄目なのだ。コウを尊重できない。手の届く場所に彼がいれば、触れたいと思う。抱きしめたいと思う。キスしたくて堪らない。いつだってコウが欲しい。今みたいに心に負荷があるときは尚更だ。
そして、そんな自分に呑み込まれ、熱に浮かされ激情に流され、コウに自分を注ぎ込む。彼をただの器にしてしまう。コウを欲動のはけ口にして悦んでいるなんて、自分がただただ気持ち悪いだけだ。
自分自身に絶望する。尊重など、夢のまた夢だ――。
年上ぶってそれなりの綺麗な理屈をつけたところで、結局いつも同じ。自分の欲動を押しつけるだけなのだ。彼を食い散らすだけ。こんなものは愛じゃない。
コウはそんな僕を知っている。理解してくれていると解っているから、僕はどっぷりと彼に甘える。貪欲に喰らい続ける。
終わりのない永遠だ。
永遠なんて、こんなにも無慈悲で残酷なものなのに、なぜ彼は、そして人は、それを望むのだろう――。
けれど――、僕の愛はこの悔恨の内にある。僕の恥こそが僕の愛だ。そう思える間は、まだ、救いがあるのではないかと思えるのだ。いつかは必ず、僕は僕の獣を鎖に繋ぎ、コウに純粋な愛を差し出すことができるのではないか、と。
コウを傷つけることのないように、自らを部屋に閉じこめ鍵をかける。つぶらな瞳の壁紙の小鳥が僕を見て笑っている。「仕方ないね、きみは」って。コウが、こんな僕をいつも笑って許してくれるみたいに。
その壁に飾られている野草の刺繍の額にふと目が留まった。繊細だがシンプルな図案だ。これも彼女が刺したものだろうか。白い布地にカモミール、ディル、ラベンダー。僕が知っているのはそれくらいか。
ファッションモデルという職業につき華やかな世界に生きていた彼女なのに、本当は、こんな素朴な草花が好きだったという。彼女の養父母のために用意され、彼女の好みが反映されているというこの部屋は、モリスの凝った意匠の壁紙にはそぐわない素朴で地味な調度品で設えられている。
アンナから聴かされた彼女は、雑誌を飾る華美な写真からは想像もできない内向的な女性なのだ。とても夫の反対を押し切って、僕を産むことを選ぶような意志の強い女性ではなかった。けれどだからこそ、誰もがその意志は本物だと尊重したのだ、とアンナは言った。そう、彼だって折れたのだ。――彼らの前では。内緒で魔術師たちと契約していただなんて、誰も思いはしなかったさ。
コウが――、訪れたコミュニティマーケットで野草の練り込まれた石鹸を欲しいと言ったとき、野草の好きな貴女のことを思い浮かべた。コウは、貴女のペンの導いた僕の運命だから好みが同じなのだ、と。そしてこの非論理的な連想に、自分でも失笑してしまったよ。
決して信じてなどいなかったのだ。ただ僕は、彼につながる何もかもを棄ててしまいたかっただけだった――。けれど運命はコウを連れて僕の元へ戻ってきた。アンナの言った通りになった。これは、貴女の仕掛けた魔法だったのかな、アビー。
アビー、母さん、どうして僕を産んだの? 彼の想いを裏切ってまで――。
苦しくなって思考を止めると、振り子の音が僕を刻んだ。カツッ、カツッとカッコウのように規則正しく輪郭を削る。僕はそこから剥落していく。ぽろぽろの木屑になって。崩れてできた穴を覗いてもなかは空っぽ。僕の獣はコウのなかだ。コウを喰らい続けて離さない。
コウの身体にはコウはいない。そこにいるのは僕の獣。それならば、今、ここにある僕の身体には何がある?
僕を満たしていたきみの愛は――? 僕の獣が喰らってしまった。
それでも僕はここにいる。きみに焦がれる僕がいる。きみに向かう僕がいる。
僕が、――いる。




