ノート 3.
コウの部屋に置いたままだった蜂蜜酒を持ちあげて、違和感に小首を傾げてしまった。なんだか中身が減っているような気がするのだ。ショーンの来たその日に、点滴を終えたコウに一口あげただけなのに。半分とはいわないが目に見えて減っている気がする。
きみがこっそり起きあがって飲んでいたのなら、嬉しいのに。
眠り続けるコウに、一口だけ口移しで含ませてみたのだ。どうせ無駄だろう、と期待しないように自分自身に言い聞かせながら。
「これ、スミスさんにあげてもいい? いるなら、置いておくけど、」
答えてくれないの――?
「きみが目を覚ましたときのために、もう一本注文しておくから、ね?」
コウの乾いた唇が痛々しくて、唇を近づけそっと触れた。舐めて含んで、堪らなくて、唇を吸い繰り返し食んだ。片手で頭を反らせて持ちあげ指で口をこじ開ける。舌を侵入させ彼の舌に絡める。
応えてくれないの、コウ――。
蜂蜜酒の瓶を掴んで、逃げるように部屋を後にした。
スミスさんに瓶を渡し、お引き取り願った。もう彼の話につき合ってあげられる気分ではなかったのだ。
もうなんだっていい。コウが目を開けてくれるなら。僕を見て、僕の名前を呼んでくれるのなら。根拠なんてなくていい。1%の可能性があるのならなんだってする。
部屋に鍵をかけ、棚という棚を開けてアーノルドのノートを探した。彼の口から正確な場所を聞きだすよりも、きっと、その方が早い。
――旦那様はあのノートを見つけることはできませんとも! 旦那様は絶対に、ここにはお入りになることはありません!
彼は確かにそう言ったのだ。彼はここには来ないから見つけることはない、と。つまりノートはこの部屋にあるのだ。
マホガニーのキャビネットの引き出しをさらい、小ぶりな本棚の本は全部引き抜いて中身を確認する。壁にかかった額絵の裏も。ノートは深緑色の革張りで金で蔓草の箔押しが施されている。日記帳と同じ装丁のはず。
色褪せた深緑のブロケード張りの壁。閉じられたカーテンの隙間から差しこむ夏の陽射し。艶やかに光る黒い棺。喪服の弔問客。泣き叫ぶ赤ん坊。白薔薇に囲まれて横たわる、動くことのない貴女――。
アビー、――母さん、どうかもう僕のコウを返してくれ。コウの魂を僕に返して。お願いだ。少しでも、僕を愛しむ心があるのなら――。
その場に立ちつくしたまま、動けなくなった。ゼンマイが止まってしまった。僕の動力はコウなのだ。コウがいないと何もできなくなる。何もかもがどうでもいい。もう嫌だ。我慢できない。こんなにも永遠に似た悪夢のなかで、どうやって生きろというのだ――。
ぼろぼろと溢れてくる涙に視界が溺れている。部屋全体が濡れて漂う。黒大理石の暖炉も――。
――妻が暖炉の焔は苦手なんだよ。
冬でも火が入ることはない暖炉――。
暖炉フェンスを跳ねのけ、夢中で火掻き棒で灰の中をかき回した。何かが引っ掛かった。固い何か――。
白い灰を払いのけ、咳きこみながら両手でさぐった。
ノートだ。灰で仄白くなっている。
見つけた――。
身体の芯から、枯渇していたエネルギーが戻ってくる。
コウが、アビーが、僕を導いてくれたような気がして――。
深く息をついて、しばらくその場にへたりこんでしまっていた。だが徐々に気持ちが落ち着いてくると、今度はこの部屋の惨状をどう説明しようか、と思わず笑ってしまったよ。
床の上に放りだしたままの本、ひっくり返された引き出し、そこら中に散乱している置物。極めつけは、灰だらけの絨毯か――。
あまりのストレスで、転換性障害の発作がでたとでも言えばいいだろうか。あまりにも現実的じゃないな、症状として部屋を荒らしたなんて言い訳は。
自分で片づける方がずっと現実的、ということか――。
深いため息。
とにかくまずは手を洗って、掃除道具を借りてこよう。スミス夫人への言い訳は――。訊かれたら正直に答えればいい。
ようやく見つけたノートはパラパラとページを繰るだけで灰が舞うような代物だ。引き出しをひっくり返した中からハンカチを見つけ、軽く叩いて灰を落とし、また別の一枚で包んでおく。
それから、これだけを手にしてこの部屋を離れた。まず何よりも先に、ショーンに見せたかった。
彼はもう儀式の準備に取りかかっているのだ。儀式の様式の判らない部分は、他の魔導書から仕入れた知識で補うらしい。コウの暗示を解く、というのが第一の目的にせよ、成立した契約を白紙に戻すための儀式であれば、アーノルドの用いた様式に沿ったものでなくても問題ないだろう、というのが彼の見解なのだ。
ショーンには申し訳ないが、僕は不安だった。僕に専門知識がない以上、彼を信じるしかないのだが、できることならリスクは最小限に抑えたい。
コウを取り戻す――、それが第一ではあっても、やはり僕は、アーノルドの築いた内的世界を壊すことになりかねない儀式の孕む危険性を、恐れていたのだ。
 




