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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
148/219

ノート 2.

 これまで夫人とはよく喋っていた。だが、ご主人のスミスさんとは挨拶以上の言葉を交わした記憶がほとんどない。夫人は若い頃看護師をしていたのもあって、(アーノルド)に関する報告書を作成するために協力してもらっていたけれど、眼前の彼はその役割を担うことはなかった。だから僕は、彼のキャラクターというものに関心を払ったこともなかったのだ。


 スミスさんは、夫人以上に赤毛の家の双子の兄弟に似ているように思えた。取り留めもないことを、とにかくよく喋るのだ。内容は、いかに自分たちが忠節な使用人であるかというものなのだが、その主張もエピソードもなんとも時代がかっていて、田舎で閉鎖的な暮らしをしていると時が止まってしまうのだろうかと錯覚してしまいそうになる。年齢のせいもあるのかもしれない。彼は70代――、いや80に届いているかもしれない。元気でしゃきしゃきとしてはいるが、その容貌は森の中の冬枯れた大樹を思わせる。そんな彼が容貌からは想像できない内心の小心さを吐露するものだから、僕はただにこやかに微笑みかけ、頷いて受け止めてやるしかない。もちろん、できるものなら、気づかれることなく彼らの持つ情報を引き出せたらという思惑あってのことなのだが――。




「ノートのことで僕があなた方を責めていると思ったんだね? そうじゃないよ。(アーノルド)が儀式を行いたがっているようだから――。彼の状態から考慮して反対しているだけなんだ。僕はただ、心理士として彼を止めたいんだ。彼の症状悪化に繋がりかねないからね」

「そうですとも、坊ちゃん、そうですとも!」

「そのためにもノートの所在を確かめておきたいんだよ。偶然でも彼が見つけることのないようにね」

「そうですとも! 旦那様はあのノートを見つけることはできませんとも! 旦那様は絶対にここにはお入りになることはありません! 私たちはずっと旦那様にお仕えしてきました。お優しいですとも、旦那様も、奥様も。本当に良くしてくれて、感謝しておりますとも」


 スミスさんは、いかに自分たちが彼に感謝し、彼のことを想っているか延々と語り始めた。人は過度に緊張すると使い慣れた方言がでてくるものだ。おまけに受け継がれた会話の型というものまで、顕著に現れるのかもしれない。

 僕はこれまで知らなかった彼の一面を、唖然としながら見つめていた。


「あの双子の彼ら、マークスとスペンサーは、」

「困った奴らでございますとも! 内の奴は可愛がっちゃいるんでございますが、わしは認めちゃおりませんとも!」


 今度は赤毛の家にいるあの双子兄弟の悪口が始まる。どうやら彼は赤毛に好意を持っているわけではないらしい。彼らが都会の赤毛の家で、要は彼らの規則の外で働いていることに不満を持っているようなのだ。最近の若者は節操がない。この世の規則というものをまるきり無視してなっちゃいない。その歪みがいずれは己に還ってくるのだということが判らないのだ、といったい誰に向かって話しているのか判らないような話になってきた。


 その辺りではもう、僕は頷きながら聞き流し、すでに別のことを考えていた。だが、彼のこの退屈なお喋りのなかには、ときおり零れ落ちる何かがある。それを聞き逃す訳にもいかない。しかし、引っ掛かりは感じるものの、それらは断片的すぎて上手く形にならないのだ。


 彼の警戒心を解き、その口をもう少し滑らかにできないものか――。



「そうだ、ショーンが蜂蜜(ミード)酒を持ってきてくれてるんだ。産地はグラストンベリーでね、」


 一本目のものは、コウの旅行土産だった。滋養強壮にいいんだよ、と彼はたまにサイダーやお湯で割って飲んでいた。お酒には弱いコウだから、ちょっとのアルコールでほわりと薄紅色に染まる。それがいっそう可愛らしくて――。

 皆で飲んで、と言ってくれたのだが、コウがとても気に入っていたので僕たちは遠慮していた。そして僕は、それがなくなったらコウは淋しいだろうと、同じものをネットで探して注文していたのだ。


 そんな幸せな記憶を刺激する味や香りがコウの意識を呼び戻してくれないかと、ショーンに頼んでわざわざ持参してもらったのだ。



「古来より受け継がれた製法で作られた珍しいものらしくて。封を切ってしまっているけど、良かったら」


 誰に聞いたんだっけ? ()()は蜂蜜酒が何よりも好きだ、と。こんな朧で不確かな記憶のせいで、コウのための蜂蜜酒を貢ぎ物に差しだしてしまうなんて。


 だが、その効果はてきめんのようだった。

 スミスさんは、皺だらけの顔の皺が伸び切ってしまったのではないかと思えるほどに、口許を引きあげて喜ばしげに笑っている。


「ありがとうございます! ありがとうございます! お優しい坊ちゃん!」

「取ってきてあげるよ、ここで待っていて」



 蜂蜜酒――。コウは残り少ない蜂蜜酒を、ラズベリー酒と入れ替わりで小さなグラスに入れて窓辺に置いていた。それに気づいた頃にはもう、理由を尋ねることもできないほど、コウとの関係は悪化していた。注文した新しい蜂蜜酒も渡せないまま――。



 階段を上がりながらふと思いだしたそんな記憶が、胸にひどく圧しかかる。(おもり)をつけたように、僕の足取りを重くする。


 春の旅行から帰ってずいぶん経ってから、コウの出してきた蜂蜜酒。

 本当は誰のために買ったの? 

 渡せないから封を切った。諦めるために飲んだ。

 そうじゃないの? 

 いつまでも帰ってこなかった、赤毛のために、買ったんじゃないの――。

 


 僕はその場で、そのことを彼に尋ねることができなかった。



 

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