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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
142/219

彼岸 4.

 どろりとぬかるんだ地面に足を取られ、うまく歩けない。

 ここは前にも一度来たことがある。コウの夢の中だ。ということは、僕の夢の中、なのか。コウに逢えるかもしれない。幼いコウに。もう、あんな辛い想いをしていないといいけれど――。

 それにしても歩きづらい。前の夢のように上からの圧が掛かってくることはないけれど。それに暑い。夢のくせに。

 どろどろの闇をどれほど歩き回っていたことだろう。いや、僕は本当に歩いていたのだろうか。ただ溶けて漂っていただけかもしれない。


 そう気づくと、とたんにずっと真っ暗だった闇が薄れてきて、僕を包む輪郭が見通せるようになった。肌に密着していたねっとりとした粘りが、いつの間にか自ら染みでた汗のように感じられて。僕は熱でもあるのだろうか。泥の中にいるようでいて、どこかふわふわして覚束ないこの感じは、風邪で熱を出しているときに似ている。


 そんなことを思っている間も、薄闇は棚引いて流れ、霧がかった視界がどんどん開けていた。背の高い樹々。生い繁る羊歯(シダ)。まるで南国のジャングルだ。でも、どこか既視感がある。


 ピィ――、と甲高い声がして、バサバサと瑠璃色の鳥が飛びたつ。ぬけるような青がザバリ、ザバリ、と波打ち広がっていく空。飛翔する翼。高く、強く――。


 覚えがあるはずだ。これは僕が一番気にいっていたヘナタトゥーの図案だ。無意識というのは、鮮明に覚えているものなのだな。意識にはもうほとんど上がることはなかったのに。それに、上から見下ろしていた図案を下から見上げるとこうも印象が変わるものか、と変なところで感心する。そういえば、彼もこの柄を気に入っていた。


 バニー。この夢に彼は来てくれないのだろうか。

 僕の導き手。僕のバイザー。僕には彼が必要なのに――。




「そりゃ、無理ってもんだよ。彼はもう、僕の専属だからね」


 エリック――。どうして彼がいるんだ? おまけにひどく場違いだな。こんな南国の背景でクラブのフロアにいるような暑苦しい黒のタキシードを着ているなんて。まったく、夢の中くらい、互いに解放されてもいいんじゃないの?


「そうはいかない。ここは赤毛の領域だ。僕もずっと囚われたままだよ!」

「囚われた――、きみも? じゃあ、コウに逢った? コウはここにいるんだろ?」


 僕は一瞬のうちに、エリックの襟許を掴んで揺さぶっていた。彼はいつもの薄ら笑いを浮かべて僕を見ている。


「ここは広いんだ。逢いたくもないヤツになんて逢うこともないよ」

「じゃ、逢いたいと思えば逢えるの?」

「さぁ? でも、ここにきみがいるってことは、そうかもな。ここは僕の夢だもの」


 彼は僕の手を振り払って、襟元を整える。


「アル――、きみもずっとここにいろよ。あんなお子さまのことなんて忘れてさ。きみも僕になればいい」


 そんな願い応えようがないだろ。だから黙って彼を睨めつけた。

 空気に滲みでるようにぼわりと、彼の輪郭が揺れる。


「やっぱりダメなのか。ダメなんだな――。きみは僕にはなってはくれないんだな」

「エリック、バニーのところへ帰るんだ。彼ならきみを見つけてくれる」

「いらない――」


 彼は悲しげに唇を引きつらせ、空を見あげる。ふぅーと深く息を吐く。


「それでも、アル、僕は嬉しいのかな。ここできみに逢えたってことは、きみの中に、僕は、いたんだな――」


 どんどんエリックが薄れ、大気に溶けていく。


「エリック!」


 彼は笑っていた。ごく普通に。皮肉げでもなく、揶揄っているのでもなく。


 とても薄く、薄くなって拡散して、消えてしまったけれど――。




 バニー、僕はこの夢をどう解釈すればいいのだろう?




 振り子時計が秒を刻む。克明に。僕の時を奪っていく――。


 ゆっくりと見渡した部屋の壁に、古い時計が掛かっていた。その周囲を緑と青の葉が装飾的に絡まりあう。小鳥が苺を啄んでいる。この壁紙はウィリアム・モリスの苺泥棒――、スミス夫人の用意してくれた僕の部屋だ。コウのいる部屋で寝起きしていたから、着替えを取りにくるときにしか使ったことはなかったけれど。


 なぜここにいるのかが判らなかった。僕は台所にいて、――倒れたのか。スミスさんが部屋まで運んでくれたのだろうか。貧血でも起こしているのかもしれないと、慎重に頭を起こし、半身を起こした。特に問題はなさそうなので、そのまま置きあがる。

 壁の鏡で顔色を確かめた。襟の陰にヘナタトゥーが覗いて見える。シャツをはだけて確かめると、変わりなく鮮やかな蛍光緑だった。これまでの図案のように薄れて消えていく様子は微塵もない。それとは逆にエリックのつけた傷痕は、ずいぶん薄くなっていた。気をつけて見ないと、それと気づかないほどに――。


 そう、今見たばかりの夢のように。

 彼の存在は、こうして跡形もなく僕から薄れ消えていく。これまで関わった多くの誰かと同じように――。






  

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