表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第一章
14/219

規則 4.

 大学は夏季休暇中といっても、僕はとりたてて変わりなく研究室に通って、リサーチアシスタントを務めている。コウも、それまで通っていた大学進学準備(ファウンデーション)コースの代わりに、日々、規則正しく図書館に通って課題図書を読み漁っているので生活に変化はない。

 だがマリーは、サークル活動やボランティア活動に励んでいるため、週末を含めて家にいないことが多くなった。


 そこへ、この自由気ままを信条とする二人が加わった。あの赤毛は、渋るコウを言いくるめて連日のように連れだしている。コウと僕がゆっくり過ごせる、残り僅かな貴重な休日もおかまいなしだ。コウがこの家の規則(ルール)よりも赤毛を優先することが、信じられなかった。舌先三寸で言いくるめられ、あの強引さに呑まれて仕方なく――、そうに決まっている。

 少しでも長く一緒にいたい――、そう言ってくれたばかりじゃないか。

 行方不明状態からやっと戻ってきた赤毛を労わる想いもあるのかもしれない。そのことで苦痛を抱えていたのは、コウの方なのに。



 どうであれ、あの赤毛の存在は僕にとってどうしようもなく苦い現実だ。この苦みもそのうち日常の中でこなれ、食卓のマーマイトのように苦さの中に旨味をみいだせるようになるものだ、とバニーは笑って言っていたけれど。有り得ない。このざらざらとした砂を食むような苦々しさに慣れる日がくるなんて、とても思えない。現にコウは英国に来て一年が過ぎようと、マーマイトだけは絶対に口にしようとしないじゃないか。突然知った馴染みのない苦さなど、そんなものだ。受け入れることは不可能だ。



 そしてこの男、ショーン。彼は自分の失態をいかに言い訳するか、今もしきりに頭の中で巡らせている。言い訳しなければならないと思えるだけまだ可愛げがある。落ち着きのない眼球が過去とこの場をいったりきたり忙しないが――。そのくせ僕に否定されるのを恐れて、どう切り出すかの最初の一手を打てずにいる。きっと彼はじきに諦める。考えることを放棄してこう言いだすだろう。


 ――アル、聴いていると思うんだが、俺も悪かったと反省してるんだ。



「アル、もう聴いて知ってるんだろ? 悪かったよ、彼女には言い過ぎたと思ってる。これでも反省してるんだ」

「解ってるよ、ショーン。売り言葉に買い言葉、ってやつだろ? 些細なことじゃないか、そう気にすることでもないさ。騒ぎすぎるのはマリーの悪い癖でもあるんだ」


 同じ苦々しい存在であっても、ショーンはまだ甘さをほのかに感じられる皮入りマーマレードに近いかもしれない。これはマーマイトにつぐ、コウの嫌いな英国の苦み食品だけどね。コウの言い方を借りると、「マーマレードは食べ物だということは理解できる、それに比べてマーマイト(あっち)は――」不快指数が違いすぎるらしい。コウは、申し訳なさそうな顔をして、「きみたちの文化をけして否定するわけじゃないんだ。でも味覚ってものは意志の力ではどうすることもできないんじゃないかと思うんだ。きみが納豆をみて顔を背けるのと同じで……」と言葉を濁していた。かまわないよ。僕も同意見だ。


 意志の力ではどうしようもないほど、嫌い。それが悪いこととは思わない。僕だってあの納豆(腐ったマメ)を毎日食べろといわれるなら、どんなにコウのことが好きでも彼との関係を清算することを考えるかもしれない。幸いにも彼はそんなことを言うタイプではないから、真剣に検討したことはないけどね。



 ともあれ、僕に取っての不快指数10段階の8くらいのショーンは、薄っすらと笑みを浮かべた僕を見て、ほっとしたように肩の力をぬいた。僕はキーボードを叩くのを止め、わざと神妙な顔を作ってみせた。


「でも、あまり細かなことで諍いになるようでは、関係がギクシャクしてしまって寛げなくなってしまう。コウは今の時点でもう、かなり神経を逆立てているみたいだからね」


 軽く握りしめていたショーンの拳が、ぴくりと痙攣する。コウの名前に反応したのだ。


「彼は、――あれこれ気を遣い過ぎなんだよ!」


 吐き捨てるように呟く。


「そうだね、僕もそう思うよ。だからね、コウに要らぬ気を回させないためにも、シェアルールを決めてあるんだ。なんといっても、日常の家事を受け持ってくれているのは彼だから。すまなかったね、さきに話しておけばよかった。なに、大したことじゃないよ、常識の範疇だ。僕もマリーも問題なく過ごしてる。本当に些細な決まりばかりだよ」



 徐々に血の気が失せていっているような、今のショーンの間抜け面をマリーにも見せてやりたい。「規則」というだけで警戒心をありありと曝け出して――。


 どれほどこの男がコウの友人として負担になっているか、これで解ろうというものだ。






マーマイト(Marmite)…… ビールの醸造過程で沈殿堆積した酵母を主原料とし、主にイギリスで生産されている食品。濃い茶色をしており、粘り気のある半液状で塩味が強く、独特の臭気を持つ。他に類を見ない味と香りのため、外国人には理解できない味とされる食品。


 見た目は瓶入りチョコレートペーストなのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ