取り替え子 4.
「疲れた――」とショーンを見あげて、つい愚痴ってしまった。
僕よりも彼の方こそ、ほとんど寝ずに頑張ってくれていたというのに。だが彼は「そりゃそうだろ」と、すぐに同意して大きく頷く。
「彼と一緒にメシ食ってきたんだもんな。俺は母親と一緒にメシなんて食えないよ。とりあえず休んでこいよ。またお茶の時間にでも――、ってもういい時間だな、夕飯のときにでも話そうぜ。それまでに俺ももう少し頭ん中整理しておきたいしさ」
心なしショーンは苛ついているようにみえる。僕は床の上に開かれたまま置かれている幾冊もの本や、怪しげな図面の印刷された古びた紙類の束に見るでもなく視線を流す。彼もアーノルドと同じで、部外者に作業を中断されるのが嫌なタイプだったことを思いだした。
「そうさせてもらうよ。ありがとう、ショーン。一人で考えていたときよりも、ずっと視野が広がった気がする。本当に助かってるよ」
心からそう思っていた。お愛想でも、儀礼でもなく。彼はそっぽを向いて「じゃあ、また後でな」とさっさと僕に背を向けている。僕も、「じゃあ」と応えて書斎を出てコウの部屋へと戻った。
「コウ、何も変わりない? 大丈夫?」
変わりなく横たわっているだけの、彼の髪を撫でる。頬を撫でる。額にキスを落とす。温もりを確かめる。少し体温が高めな気がする。この陽気で室温が上がっているのかもしれない。窓を開ける。見おろした庭の作業小屋のドアも、窓も開け放たれている。彼の姿がちらちらと見え隠れしている。
ベッド脇に置き放している椅子に腰かけ、コウを見つめながらさっきまでのショーンとの会話を振り返る。僕には彼の話す魔術的視点がすっとは馴染まないのだ。魔術的世界は象徴世界だ。まずはその象徴を僕の理解できる言語に翻訳し、指し示すものを見つけなければならない。
「僕はきみの信じる世界を否定しているわけじゃないんだ。きみたちのいう異界を、内的世界と呼び変えられるなら、僕にだって、理解の届く世界だと思ってるんだよ」
そう、おそらくきみも僕も、見ている世界は同じ。
ショーンは、外的世界の人間としてではなく、自分も彼の内的世界の一員のように、彼の妻を分析していた。あたかも、それが彼の妄想であることを忘れてしまっているかのように。だが、今はその視点が僕には必要なのだと思う。
彼の妻は、彼の信じる魔術的世界の規則に則って動いているはずなのだから。
彼の無意識は、現実で彼が経験した感情的な傷つきを覚えている。その痛みを封じ込め、揺らぐことのない美しい世界を防衛的に築くために、いくつもの禁止事項を彼に課している。
絶対条件は、これが彼の城のなかでしか効かない魔法だということ。
この館と彼の行動範囲である敷地内だけが、彼の中間領域となり得る場所だ。ここから一歩でも外へでると、彼の心的活動そのものが停止される。
彼の妻は、「その子が裏の森で迷っているのを見つけて、家に連れ帰ってきた」と言っている。この「裏の森」はぎりぎり彼の中間領域内であり、ショーンやコウのいうところの異界への象徴化された入り口だ。外的世界に属するコウを取り入れるにあたって、彼の発見場所として適切だろう。
迷っている子ども――。
彼自身の迷いを投影しているのだろうか。彼はコウに、「妻と子どもと、両方望めば良かった」と告げている。精霊との契約でアビーの永遠の命と「取り替え」た子どもを、今さら取り戻そうなんて、なぜ?
綻びなのか――。
彼の内的世界には、すでにいくつもの綻びがあるのかもしれない。それは繕っても、繕っても破れ、形を保てなくなり、崩れ始めているのかも。さらさらと音もなく解体されていく砂の城だ――。
彼の心を外的世界に呼び戻すどころか、彼はもはや、この中間領域すら維持することが難しくなってきているのではないだろうか――。
閉じられた世界で、循環することのない彼の愛――。しょせん妄想の妻は、彼の投影した自分自身の影でしかない。
それでも彼はその綻びを必死で繕おうとしているのだ。彼がアビーから奪った子どもを、彼女に与えなおすことで。彼の魔術を破ったコウを、生贄として取り込んで。
彼女のために――。
本当に? これは彼女のためなのか? とてもそうとは思えない。彼女の意志はどこにあるんだ? 息子を望み、自らの死を受け入れたアビー。今また彼は、彼女から取りあげた息子を魔術的に彼女に与えることで、妄想の妻の抱える喪失を埋めようとしている。その喪失は、彼自身の抱える弔われることのない彼女の喪失だというのに――。
閉じ込められて。
支配されて。
操られて。
母は、彼と暮らして、本当に幸せだったのだろうか――。
「僕は、僕の自由になるきみの身体がここにあっても、ちっとも幸せじゃないよ、コウ」
動かないきみの唇。閉じられたままのきみの瞼。
「きみの声が聴きたい。きみに見つめられたい。きみに、僕を抱きしめてほしい」
触れても、応えてくれない肌。
「きみの心に触れたい」
愛してるんだ――。
 




