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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
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取り替え子

「どういうことになってるか、判るかい、ショーン?」


 食事の後、約束はさておいて書斎に立ち寄った僕は、本当に縋りつきたい想いで、難しい顔をして腕を組んでいるショーンを見つめていた。アーノルドとの会食の仔細を彼に話しているのだが、まず、僕には彼の口にする単語からして判らなかったのだ。


常若の国(ティル・ナ・ノーグ)って、何?」

「妖精の国だよ」

取り替え子(チェンジリング)って?」

「妖精が人間の子どもを欲しがって、自分の子どもや丸太ん棒なんかと交換して(さら)っていくこと。あるいは攫われた子ども、残された妖精の子ども自身を指すこともある」

「ああ、そのことか。それなら僕も何かの講義で学んだことがある。中世の、親が子どもの虐待の言い訳に使った常套手段だ」

「よく知ってるな」


 ショーンは意外そうに僕を見つめ返した。と同時に、僕は今さら、この語句が彼にとっての禁句だったことを思いだした。


「すまない」

「気にしちゃいないよ」


 ショーンは皮肉げに唇の端を釣る。

 忘れていた訳じゃない。ショーンの精神的外傷(トラウマ)(アーノルド)の話とが、僕の知っている「取り替え子(チェンジリング)」の知識とは重ならなかったのだ。


 僕の学んだこの「取り替え子」は、取り替えられた妖精の子どもと親との関係性の物語だった。中世ヨーロッパのこの伝説の背景は、自分とは似ても似つかない奇形児や知的障害児、発育不全児を、その実の親が、自分の子どもではないどころか人間ではないと疎んじて虐待していた事実にある。伝承のなかで述べられている妖精の子の特徴は、現在よく知られている多くの遺伝性疾患や自閉症児の症状と一致する。「取り替え子」とは、自分自身と世間に対して虐待を容認し正当化するための都合のいい言い訳にすぎないのだ。


 そこには自分が抱く子どもを想う心も、失われた子どもを探し求める親の姿もなかったのだ。だから繋がらなかった。


 ――よく知ってるな。


 ショーンのこの言葉は、民俗学的考察からくるものなのだろうか。彼もまた、この語句の意味する歴史的背景を知っているのだ。彼の母親が自身を納得させたこの「取り替え子」という語句の持つ本来の意味を。

 妖精に攫われていなくなった妹と、置き去りにされた少年(ショーン)

 彼は自分自身の本当の自我を抑圧して、代わりに残された醜い妖精の子どもとして両親から憎悪される自我を、母親のために引き受けてしまったのかもしれない。

 コウのなかに妹を見出し、自分自身の本来の姿を取り戻すまで――。



「おいおい、そんな深刻な顔をするなよ。本当に気にしちゃいないんだからさ!」


 ショーンはわざと明るく声音をあげている。彼の眼差しは、今はもっと大事なことがあるだろ。自分のために時間を割いている場合じゃない、と僕を諭すような、そんな厳しさを孕んだものだった。

 僕は軽く首をすくめてみせた。これでこの話は終わり。僕はきみの事情には踏み込まない。それで、どこまで話していたんだっけ――。




 彼もまた、視線をウロウロさせながら話を繋ぎ直す糸口を探している。


「ところでさ、前の話じゃ、彼女の語るその子どもは、東洋人の容姿をしているって言ってただろ? 黒髪ってところは、きみとも彼女とも共通するし、自分の子どもとして受け容れやすいかもしれないけど、彼女が『取り替え子』って言う根拠としては合わないんじゃないのか?」

「ああ、彼の話では、妖精界に長くいたから外見も妖精っぽくなってしまったに違いない、と彼女が言っているって」

「コウの外見って妖精っぽいのかな?」

「並外れて可愛いだろ」

「おい、のろけるなよ」


 そういうショーンの方が至極真面目な顔をしている。別に僕だってのろけているわけではない。コウのあの独特の雰囲気には形容し難いものがあるのは、彼だって解っているはずだ。とても人間的で温かいのに、コウにはどこか空気のような質量を感じさせない軽さがあるのだ。実体のない夢のような儚さが――。だから僕はアーノルドの言葉を特に意外感なく受け取ったのだ。



「それにしたって、きみの父親は実際にコウに逢ってるんだろ? それがコウだって思わないのかい?」


 なんとなく空いてしまった間を誤魔化すように、ショーンは机の上に置きっ放しだったサンドイッチに手を伸ばして頬張り、口をもごもごさせながら話を戻した。



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