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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第一章
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規則 3.

 せっかくの日曜日なのに、ぽっかりと穴が開いてしまった。――心に。


 皆、出かけてしまった頃を見計らって居間に下りた。珍しくカーテンが閉めっ放しだ。いつもこの家に光を呼び込んでくれる、コウがいないから……。


 コウが来たばかりの頃、何も知らずに洗濯機で回して駄目にしてしまったアンナのお気に入りのカーテンの代わりに、マリーが冬のバーゲンで選びに選んで買ってきた、ウィリアム・モリスのケルムスコットツリーが、薄暗い部屋の中で浅い光を透かし、輝く森のパターンを浮かび上がらせている。


 まるで御伽噺の風景だ。梢を丸め、何かを大切に隠し守っているような丸い樹々がリズミカルに躍り、青い小鳥は幸福の歌を歌う。誘うような迷路の入り口。コウはこのカーテンをいたく気に入っている。しなやかな若木がきみのようだね、って。絡み合う白薔薇(アイスバーグ)のカーテンは嫌いだと言っていたくせに。


 英国の御伽噺に憧れて、留学してきたコウ。几帳面な性格とは裏腹な、ロマンチストで非現実的なオカルト好きなのかと思っていたのに、彼はいたって真面目な民俗学的なアプローチで、ファンタジー世界を考察していた。印象を裏切らず、といったところか。けれど彼は人間臭さが薄く、その愛らしさは、どこか妖精を思わせるのも本当で。光に溶ける森の樹の葉陰にでも隠れていそうな。


 そんな気分にさせてくれるから、カーテンは閉めきったままソファーに転がった。



 何もする気になれない。やらなきゃならないことは山ほどあるのに。こんなことで、ドイツに行ってからまともにやっていけるのだろうか。コウの不在に切り裂かれ、空っぽになっているのは僕の方だなんて。目を瞑れば、いつでもこの手にきみの感触を捉まえることができるのに。そうすることが逆に虚しさを暴き立て、いいようのない寂寞(せきばく)に襲われる。この捩じれた世界に、眩暈がする。



「切り替えなければ……」


 コウは夜には帰ってくる。僕の許に。なにも不安に思うことはない。二人が戻ったら、ショーンも交えてこの家の規則を明確化する。どのみち彼らには守れはしない。一か月経たないうちに出て行ってもらう口実ができる。そうなれば元通りだ。僕はコウと二人、残りの日数を満喫するのだ。あんな赤毛に煩わされることなく。


 大丈夫。きっと上手くいく。



 ローテーブルの上に昨夜から置いたままだったパソコンを引きよせ、立ち上げた。ゆっくりコウとの時間を持つためにも、今できることをしておかねば。昨日はまるでデータ分析作業が進まなかったのだから。

 でもその前に、コーヒー。それから何か胃に入れて……。




 キッチンに入ると、テーブルにメモが置いてあった。


『 アルビーへ 


 おはよう。ゆっくり休めた? 

 冷蔵庫の中を見て。

 今日のブランチは、きみの好きな中華粥だよ。

 温めてもいいし、冷たいままでも美味しいと思う。

 薬味を忘れずに加えて。

                    コウ 』



 コウ――。



 生姜(ジンジャー)の利いた風味に、また苛立ちが込み上げてくる。けれどキンキンに冷えた鶏粥は、そんな不快な馬鹿馬鹿しさの熱さえ絡めとって、喉から胃へとすとんと落ちてくれた。


 コウは僕をないがしろにしているわけではないのだ。僕自身が、あの赤毛(ジンジャー)のことを気にし過ぎているだけで――。こんな些細なことに振り回されてどうする。これから一年間、コウと離れることに決めたのに。


 深く、息をついていた。思考を止めて、食べることに専念する。食べ終わってから、薬味を入れるのを忘れていたことに気がついた。仕方ないな。いつも気を配ってくれる、コウがいないもの。








「アル、なんだ一人なのか? 結局、夕飯は何人分いるんだ?」


 帰ってくるなりこれだ。

 ショーンは、いらないことはとめどないくせに、必要なことはいつも要点だけですませる。


「きみと僕だけのようだよ。マリーも遅くなると言っていたから」と、開いたパソコン画面から顔を上げ、軽く頷いてみせる。


 マリーの怒りは、昨日の今日で収まるようなものではないらしい。顔を合わせたくないから明日は一日留守にする、と昨夜のうちに言い捨てていた。彼女の短気は承知の上だが、自分の過ちを発端に、こうまで煽り立てることのできるショーンの口の悪さも相当なものだと思う。


「なんだ、いろいろ買ってきたのに」

 ショーンはどこか居心地悪げだ。床に下ろした紙袋を持ち上げ直し、踵を返してキッチンに向かう。



 しばらくすると、彼はティーポットとミルクを手に、マグカップ二つを指に引っ掛けて戻ってきた。コウのようにわざわざティーコジーを使ったりはしない。何も言わずにお茶を淹れ、置きっ放しだったシュガーポットを手許に寄せる。


「ありがとう」と、パソコン画面に目を据えたままカップを口に運んだ。

「メシは、」

「何時でもかまわないよ」



 日曜日の夕食は揃って食事をする。食事当番は交代でする、それがコウとマリー、それに僕で決めた以前からのこの家の規則だ。


 だが、最近ではこの規則はあまり守れているとはいえない。夏季休暇中だから、というのもある。だが心地良い生活リズムが壊れた主な理由は、ショーンと赤毛、この傍若無人な二人がこの家に加わったからだ。



 僕らの生活を掻き乱す二人、もちろん眼前のこの男に、そんな自覚はない。





ウィリアム・モリス… 19世紀イギリスの詩人、デザイナー。ケルムスコットツリーは、モリス邸のカーテンをモチーフにした英国・Moorris Co.のファブリック。

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