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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
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書斎 5.

 ショーンはいったん集中しだすと、邪魔されるのがとことん嫌いなタイプらしい。

 結局、僕がいると気が散るから、今日は一人で作業させてくれと言われてしまった。本当は食事も書斎で済ませたいくらいだが、そうなると籠りきりになりかねないし、昼と夜、それに午後のお茶の時間にでも判ったことは報告するよ、と簡潔に告げられた。

 どうやら昨夜、同じ部屋で寝ていた僕のせいで集中を削がれたのを、かなり根に持っているらしい。僕としては、大して役に立てないのも解っていたので二つ返事で頷くしかない。

 とはいえ、彼一人に任せっきりで僕は何もすることがない、というのも情けない。僕は僕で、何か別のアプローチ方法を見つけなければならないようだ。




 でも、まずは一番にバスタブに湯を溜めて浸かりたい。昨夜はカウチで寝たせいか、身体が妙に凝ってくたびれている。


 浴室の窓を少し開けて風を通した。薔薇の香りがふわりとしのびこむ。外壁を這う蔓薔薇(アイスバーグ)が、窓の下まで伸びていた。

 薔薇色の絨毯の敷かれた床に膝をついて屈み、バスタブの真鍮の蛇口を捻る。同系色の磁器製の縁に腕をかけて、熱い湯がどうどうと流れて溜まり、湯気がぼやりと広がっていくのを眺めていた。コウも湯に浸かりたいだろうな、とそんな気がした。こうして自分一人でいるのが居た堪れない。


 思い立ってコウの部屋へと急いだ。彼を抱きあげすぐに取って返す。コウを膝に抱いたままドレッサーのスツールに腰かけて、まずは自分の服を脱ぎ、それから彼のパジャマを脱がせた。


 また彼の入れ墨(タトゥー)の感じが変わっている。赤い火焔に絡みつく、静脈のような痣のような緑の線が浮きあがっているのだ。目にするたびに変化していくこの入れ墨に、もう驚くこともなかったけれど。それは夢のなかで見た燃えるコウの焔と、それを囲い込んだ緑の蔓を思い起こさせ、いい気がしない。なんだか、彼の痛々しさが倍増するように感じる。


 だから意識して彼から視線を逸らし、しっかりと抱え直してバスタブに浸かった。


 赤毛の家で同じようにしていたのは、ほんの数日前のこと。あのときは、少しだけ、コウに近づけたと思ったのに。


 ――きみのことが、好きだからかな。


 そう言って、きみは僕を抱きしめてくれたのに。


 ぐったりと弛緩したまま僕にもたれている今のコウは、僕が欲望のままに犯したときの彼と同じで、怒ることも、歯向かうこともない人形のようで――。僕は無言の内に彼に責められているような気がして堪らなかった。


 それでも、僕は僕の罪を手放すことはできないのだろう。きみを抱き続けて、生きていきたい。きみに刻まれた僕の罪ごときみを抱えて。

 きみが僕を抱きしめてくれることができなくても、僕はきみを抱きしめることをやめない。ずっとこうして、きみを抱え続ける。


 僕の大切な愛しい人――。


 コウを抱きしめる腕に力がこもった。なにも応えてくれない彼の身体が、僕の罪深さを思い知らせる。この現実に崩れそうな僕を、それでも、この、コウの身体が支えてくれている。


 



 コウをバスローブで包み、抱きかかえて彼を髪を拭きながら、僕はアーノルドのことを考えていた。彼の愚かさのことを。コウから意識を逸らした先が彼だなんて、皮肉なものだな、と思う。結局、僕はどこにも逃げ場がないし、逃げることはできない。そして何よりも、逃げる気もないのだ。コウと一緒に生きていきたいと望むのであれば――。 


 僕はもう、アーノルドのことを嗤えないな。彼のことを軽蔑できない。彼はあまりにも僕自身だ。彼の彼女(アビー)への想いを嫌というほど実感できた。彼が彼女の実在を自分のなかに保つために、僕という子どもを犠牲にしたところで、それがどうだというのだ。まったく大したことじゃない。僕だって同じ状況に立たたされたら、その誘惑に逆らえるかどうか判らない。ただいかんせん、僕は魔術なんてからきし信じないというだけのことで。


 それに今は、アーノルドと同じくそれを信じて取り込まれたコウを取り戻すために、魔術を打ち破る方法を模索している。その過程は、コウの言っていた通りだと思うのだ。


 ――あり得る、あり得ないは問題じゃないんだよ、アルビー。要は、アーノルドがそう信じているっていうことなんだ。


 信じることが、人の心に魔術的な作用を及ぼすのだ。コウは充分にそのことを知っていて、それでもそれに逆らうことはできなかったのだろう。惹かれるものと恐れるものが、表裏一体の同じものだからだ。


 きみは、きみの恐れる魔術的な世界(気持ち悪いもの)に捕まってしまったんだね、コウ。


 おそらく赤毛は、きみのことをきみよりも理解している。だからこんなにも易々と、きみの心を僕から取りあげた。きみの無意識は意志ではなく、きみの本当の心に従っただけ。そして赤毛は、それを動作させるスイッチを入れただけだ。

 だからこそ、僕は、きみをこんなふうに非情に使う赤毛が許せない。



 こんな鬱蒼とした想いのままコウを抱えて立ちあがったとき、ふと背後のドレッサーに目がいった。鏡の前に、アビーが使っていたのであろうアンティークガラスの香水瓶や小物入れが並んでいる。フックに掛かる女性物のバスローブ。小窓に置かれたポプリケース。女性向けに設えられた浴室のそこかしこに、彼女の気配が香っていた。


 これが彼のいる世界なのだ、とふと思った。

 四半世紀止まったままの、決して動くことのない淀んだ気配を手放すことなく、彼は、彼のなかに彼女を抱いて生きてきた。生きている僕の実在を殺して、作りあげた夢の世界で――。




 僕は嫌だ。きみの気配と生き続けるなんて――。


 生きて、応えてくれるきみじゃないと。

 僕はきみを愛して、きみが僕を愛してくれて。

 尽きることのない愛を互いに交換しあいたい。


 それが愛しあうってことだろう?


 僕はアーノルドと同じじゃない。同じにはならない。

 僕とは別の一個の人として生きるきみと、この現実を一緒に生きていきたいんだ。


 




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