書斎
僕たちが庭にいる間に来てくれていた医者と軽く話して見送ったあと、僕はまた一人になってコウの傍に腰かけている。
医者の話では、コウの容体に取りたてて変化はなく、健康は保たれているという。ここには看護師の資格をもっていたスミス夫人もいる。もうしばらくはこのままでも大丈夫だろう、と言ってくれた。「それにしても、催眠術というのは厄介なものなんだね」と、彼は冗談めかして大袈裟にため息をついてはいたのだが。
外から聞こえてくる話声に、ベッドから離れて庭を見下ろした。ここからは彼の作業小屋がよく見えるのだ。彼とショーンが小屋の表にいる。彼が腕を広げて身振り手振りで喋っている。彼の声は低く不明瞭で、何を話しているかまでは判らなかった。けれど、彼がとても楽しそうに興奮していることだけは見てとれた。僕と彼との間で、あんなふうに会話がなされたことは今まで一度もない。
顔のない記号であっても、僕よりも、僕以外の誰かの方が彼には好ましいのかもしれない。そんな分析が浮かんでいた。僕が誰だか判らなくても、彼は無意識に嫌って避けているのかもしれない、などと。それならば、ますますショーンを呼んで正解だったということだ。
流れるままにそんなことを考えていた。ぼんやりと窓辺に佇んで。風に揺れる白薔薇を、見るでもなく眺めていた。昨夜の風で多くの花が散ったらしい。といっても氷山の白が目減りするほどではないけれど。庭を歩いているときはそうも思わなかったのに、こうして上から眺めると、少し離れた芝地にまで花びらが飛んで、まるで雪を散らしたようだ。その清楚な風情に心惹かれた。きっと、コウはこんな景色が好きだろう。彼はこの花が好きだもの。僕よりもよほど彼の方が、この花が似合う。
「おーい!」
ショーンの声にはっとして視線を戻す。さっきと変わらない場所で手を振っている。彼は小屋へ戻ったのかそこにはいなかった。僕も彼に応えて手を振り返す。彼は身振りでここへ戻ることを示していたので、僕も下へおりるよ、と手振りで応じた。
裏口から庭へでると、ちょうどショーンも戻ってきていた。彼は僕の顔をみるなりにっと笑って親指を立てる。
「収穫あり?」
「これからだけどな。ヒントは貰えたと思う」
歩きながら、彼との会話を要約して教えてくれた。彼の傾倒していた魔術に関する本や資料の類が彼の蔵書にあるという。その用途や用い方を解説すると彼に約束することで、ショーンはそれらを閲覧する許可をもらったというのだ。
「きみ、すごいな。警戒心の強い彼からよくそんな許可をもぎ取れたね!」
僕は素直に関心したよ。ショーンは照れたように口許をほころばす。
「いや、本当に面白かったんだよ、彼と話すのがさ。趣味が合うってのはやっぱり、そんなもんじゃないの?」
コウの見解とはやはり違う。コウは彼のことを、素人、と一刀両断だったのに――。でも、コウはショーンのことをそんなふうに批評したことはない。彼の知識量、勉強熱心なことには頭が下がる、負けられない、といつも誇らし気に語っていた。ショーンはいい友人でライバルなのだ、と。だから焼きもち焼かないでよ、って。
「ところで――、」
彼の声のトーンが一段跳ねあがる。
「あの美人は誰だい?」
何のことか判らず、首を傾げた。
「君によく似た黒髪の美女だよ! ほら、窓辺できみの後ろにいた!」
「さっきまで僕がいた部屋かな?」
ますます訳がわからなくて訊き返す。
「そうだよ! 他にないだろ! きみの後ろで黒髪のすごい美人がせわしなく動いていて、よく見えなかったんだけどさ、とにかく一目で分かるレベルの美人だった。でもきみ、一人っ子だよなぁ。親戚かなにかかい?」
僕は狐に摘ままれた心持ちできょとんと彼を見つめ返す。
「それって、コウじゃなくて?」
「女、間違いなく!」
コウが目覚めて起きあがっていたのかと思ったのに――。
「あの部屋には、僕とコウしかいなかったよ。それに、僕たち以外でこの館にいるのは、アーノルドとスミス夫妻だけだ。お医者さまもみえられていたけど、もう帰られたしね。今日は看護師は一緒じゃなかったし――。アビーの幽霊でもいたのかな。あの部屋は、彼女の子どもの部屋だったから」
なんとなく思いついたことを言い加えていた。ショーンを揶揄ってやろうという気持ちがあった。彼の好きな御伽噺に幽霊はつきものだろうと――。
だが、彼は笑わなかった。神妙な顔をして黙りこくってしまった。仕方なく、僕は話を切り替えた。
「で、どうする? コウを見舞うかい? それとも、アーノルドの書斎にでも案内すればいいのかな」
 




