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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
111/219

此岸 5.

 黒髪の、12,3歳くらいの男の子だ。東洋人のような神秘的な容姿で、華奢な見た目は女の子のように愛らしい。けれど意志の強そうなまっすぐな瞳が、彼が男子だということを教えてくれる――。


 (アーノルド)の話した新しい妄想の形は、聞くけば聞くほどコウだった。春の訪問でのコウが、そこまで強烈なイメージを彼のうえに残したのだろうか。それともこれは偶発的なできごとで、僕の年と同じだけの年月を、この館から出ることもなく、決まった人としか逢うこともなくすごしてきた彼が、久方ぶりに逢った見知らぬ誰かがコウだったからなのだろうか――。


 けれど、僕の存在を認知はしても一個の個性として認識することはしない彼が、コウをコウとして、彼の内的世界に取り込んでいるのだ。これはやはりかなりの進展といえるのではないだろうか――。


 とはいえこの取り入れの構図は複雑だ。彼はこの現実、彼にとっては外的世界でコウに逢っているのに、内的世界でコウを認識するのは妄想のアビーで、彼自身ではない。彼の愛するアビーが赤ん坊ではない別の対象を得たことを、彼自身は複雑な想いで眺めている。そしてこの新しい対象と外的世界でのコウは繋がっていない。彼自身が内的世界でコウを具象化しているわけではないのだ。


 コウ――、妄想のアビーの、そして彼の内的世界の、新しい対象。

 彼にとって、コウはどんな意味をもっているのだろう。


 


 (アーノルド)が妄想のアビーと連れ立ってこの場を去ってからも、僕はぼんやりと思索に耽ったままだった。彼に対する想いなんて欠片もないにもかかわらず、彼の内的世界でのコウの存在が気になって仕方なかった。なんといっても、そのコウ自身が今ここにいるのだ。コウの存在が彼を変に刺激してしまう可能性や、彼がコウに対してなんらかの行動を起こす可能性を考えなければならなくなったのだ。思いもよらない、ある種の危険性を――。


 頭の片隅で、コウのところへ戻らなければ――、としきりに僕自身が囁いている。けれど身体が重くて動く気になれなかった。もう少し、もう少しだけ休ませてほしい。僕は僕自身の犯した罪から目を逸らしていたいのだ。痛ましいコウの姿を見続けるのは辛すぎる。


 (アーノルド)の妄想のように、ここに彼女(アビー)がいてくれたら――。

 アビーはコウをいたわり、慰め、彼の世話をしてくれるだろうか。息子の恋人に、愛情をかけてくれるだろうか。


 叶わない夢想ばかりが降り積もっていく。

 窓外に積もるように咲く夏の雪(アイスバーグ)のように――。




 自分を叱咤してようやく腰をあげた。

 ぐずぐずしていると今度は昼食の時間になってしまう。彼との昼食は遠慮させてもらうように、スミス夫人に伝えておかなければ。夕方には地元の医者が往診に来てくれる。コウに応急処置の点滴くらいはしてくれるだろう。


 バニーに電話しなければ――。コウの様子を話して、指示を仰いで。僕がしっかりしなければ――。


 胃がじくじくする。吐いてしまいそうに。しっかりするんだ。大丈夫。コウは大丈夫だから。


 深く深呼吸を繰り返した。一回。二回。もっとゆっくり。そう。僕は落ち着いている。順序だてて行動できる。すべきことは解っている。


 コウ、きみのそばにいたい――。


 僕を見て。

 目を開けて、僕を見て、そしてきみは、微笑みをくれる。


 

 堪らなくなって、走って部屋に戻っていた。コウが起きているかもしれない。そんな希望に追いすがって。


 ドアの外で呼吸を整え、静かに開けた。


 カーテンは閉められたまま。僕は開けてから部屋を出たはずなのに。スミス夫人が眠っているコウを気遣ったのだろうか。


 重たい深緑のカーテンから漏れいる薄明りのなか、ベッドのそばで、コウのうえに身を屈めている人影が見えた。


「スミス夫人?」


 思わず声をかけていた。女性だと思ったのだ。滑らかな動きの影だった。だが、僕が一歩部屋に足を踏みいれたときには、その人影は煙のようにかき消えていた。部屋に置かれた花瓶か置物の影が、ドアから差し込む光に揺れて人影に見えただけだったのだろうか――。


 それとも、彼の妄想に触発されでもしたのか――。


 僕までもが病んでどうする?



 苦笑しながら、コウのそばに腰をおろした。乱れたあともないベッドカバーは、コウが寝返りのひとつも打つことがないことを教えてくれる。けれど、横たわったままなのに整えられている彼の髪、しっとりと湿った赤い唇。乾燥していた頬も、心持ち潤っているようにみえる。


 僕のいない間に、スミス夫人が何か彼の世話をしてくれたのだろうか。


 僕がする、とこれも伝えておかなければ。下手に着替えでもされたら、彼女は仰天してしまうだろう。あの全身に入る赤い入れ墨(タトゥー)に――。


 それに――、僕はやはり、誰にも触れてほしくないのだ。僕のコウに。僕だけのコウに。こんな僕の想いが、彼を追い詰めたのだと解っていても。


 僕だけの眠り姫でいて欲しい。こんな利己的な夢を、僕はいまだに捨てられないでいる。






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